第2404日目 〈『ザ・ライジング』第2章 1/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 なにかが変わろうとしている一日が始まった。
 カーテンを開け放した窓から射しこむ朝日に目を細めながら、あたかも確信するようにして宮木彩織は頷いた。日の出は午前六時二十一分。彩織はその三〇分も前からその瞬間を待ち構えていた。
 東に望む箱根の峰のあちらから太陽が顔を覗かせるよりも前に彼女が起き出しているのは、けっして習慣でもなんでもない。いってみれば単なる偶然だった。昨夜は国民投票の結果を真っ先に希美に知らせてしみじみと喜びをかみしめ、藤葉や美緒、転校した友人、その他諸々からの「おめでとう!」コールに応対し、翌日学校があるのを頭の片隅で少しばかり気にしつつ、弟とプレステ2で時計の針が三時を指すまで遊び、父に怒られてようやくベッドに入ったものの興奮で寝つけず、芸能人になったらなれたらなれなかったら、と際限なく妄想を広げたがよけい眠れなくなったので、むりやりそれに終止符を打ち、今度は今年の夏から秋にかけて合唱部で練習した、ヴェルディの《レクイエム》のコーラス・パートからアルトのところを切れ切れに思い出しながら口の中で歌い、そうしているうちにようやく深い眠りに落ちていった。
 それから二時間と経たない時間に彩織はむっくりと起き出し、夜のとばりが押しのけられるようにして退いてゆき、目覚め始めた街のさえずりを聞きながら、カーテンを開けた窓の向こうをじっと見つめていた。
 重い窓を両手で開けて、つま先立ちでバルコニーへ出てみた。じわりじわりと指の裏からモルタルの冷気が伝わってくる。さりとて部屋の中へ退散する気は湧いてこなかった。手摺りに掌をかけて、そっと眼下の風景を眺めてみる。
 いつもと変わらぬ街並みが広がっている。右手には狩野川が流れ、左手には県道が東西に走っている。狩野川の水面は波のうねりに陽光が乱反射して照り輝いていた。土手は数年がかりの護岸工事のあとで草の茂って土肌の見える部分はなくなり、ベンチや遊具がそろった小さなアスレチックになっている。彩織にとっては子供のころからの遊び場であり、両親には互いを結びつけるロマンスが生まれた場所。初めてそれを聞いたときは、なんとまあ、お手軽な、と呆れ顔の彩織だったが、「ロマンスの生まれる舞台にはね、彩織、特別な設定や道具立ては一つもいらないのよ」と伏せ目で、かつ幸せそうな笑みを口許にたたえながらの母の言葉に、なんとなくわかったような気になり、折に触れてそれを思い出しては、いつか自分にもそんな日が来るのかなあ、とちょっと顔を赤らめながら夢見ることがある。
 視線を川から正面へ転ずると沼津警察署の建物が、テニスコートを隔てて鎮座坐していた。「警察が近いと心強いね。物騒なこともそうそうないだろうし」とこのマンションを新築で購入し、引っ越してきた初日に父が満足げに喋っていたのを、彩織はいまでも覚えている。それから十年以上になるが、さすがにこれだけの歳月が流れると、なんの前触れもなく鳴り出すパトカーのサイレンは生活音に等しくなり、夜中でない限り驚くこともあまりなくなっていた。どことなく冷たい印象のする警察署だったのに、なんとなく親しみあるそれに変化したのは、疑いもなく彩織が希美と出会ってから(それは小学校二年が始まる春だった。彩織は父親の仕事の関係で、西日本の小京都と称される街から移ってきたばかりであった)。遊びに行くことこそなかったが友人――なにをするのもどこへ行くのも一緒で、どんな手段を以てしても断ち切れない絆で結びつけられた親友の父親がそこに勤務しているとなれば、否が応でも親しみが湧くというものだ。
 ――ときどき学校帰りにおじさんと出喰わしたっけ。中でジュースおごってもろたこともあった。でも、ののには内緒。ウチとおじさんとだけの秘密や。
 そう独りごちて、彩織はくすっと笑った。でもまさか、とふいに真顔になって思った。でもまさか、その人のお葬式に出なきゃならんなんて思わんかった。
 ……冷気を孕んだ風が髪をなぶり、肌を撫で、コバルトブルーの無地のパジャマ越しに凍った矢を突き刺した。
 さぶい~っ!!!
 心の中で叫び、両手をこすりあわせながら部屋へ戻り、窓を閉めた。歯が噛み合わず、ガチガチと悲鳴をあげている。
 彩織はそのままベッドに潜りこんで体を丸め、頭から布団をかぶった。起きるときにめくった毛布に巻きこまれていたウォンバットのぬいぐるみがバランスを失って、彩織の鼻先にキスをした。それを抱えこみ目を閉じたが、もう眠れそうもない。体がぬくんでくるとウォンバットを脇に押しやり、手を伸ばしてチェストに置いてある本を取った。美緒から借りているトールキンの『指輪物語』で「王の帰還」下巻だった。二月に公開された『ロード・オブ・ザ・リング~旅の仲間』を美緒に率いられて藤葉や希美と観に出掛けてからというもの、彩織はすっかりその世界すべてに魅せられてしまい、ねだって美緒が持っていた全六巻の原作を一冊ずつ借りては読み、を繰り返し、途中読めなかったときもあるものの、約十ヶ月を経てようやく最終巻にたどり着き、余すところあと数十頁を数えるばかりだった。
 寝返りを打って枕を横へずらし、肘で支えるように上半身を起こして、本を開いた。何度か姿勢を変えながら、父から朝食を知らされるまで読み耽り、たっぷりした充実感と満足感、もう新しい物語に出会えぬ淋しさを味わいつつ、彩織はこの長い長い物語を読み終えた。□

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