第2406日目 〈『ザ・ライジング』第2章 3/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美はプッ、と吹き出した。そういっている彩織の姿がまざまざと思い浮かべられたからだ。ありがとう、彩織。気を遣ってくれたんだね。あの人からかかってくるだろうとも察してくれたんだよね。でも、彩織、気にしなくてよかったんだよ。あの人からは彩織と話してるときに電話があったらしくて、留守電に入ってたから。
 「おめでとう、ののちゃん。よかったね」ふとした拍子に妹みたく感じる希美を見、ほほえみながら祝福の言葉をかけた。まわりに誰もいなければ、きっと抱きしめてしまっていただろう。
 「ありがとう、ふーちゃん」希美もほほえみを返して答えた。「でも、まだ信じられないよ、自分が十人の中に入ったなんて。彩織と一緒なのはうれしいけど、これから先のことを考えたらとても怖い」
 「怖い?」
 「だって自分の人生がむりやり変えられちゃうんだよ。なにひとつ思うようにできなくて、まるで籠の中の鳥じゃない。あの世界の人達は商品価値のある間しかタレントに投資しないじゃない。使い物にならなくなったら、空き缶を捨てるようにポイ捨て。人間のやることじゃないよ、そんなの」
 一気に吐露する希美に、藤葉はしばし呆然とした。それはいままで友人が見せたことのない一面だったから。ののちゃん、いつからこんな芯の強い考えを持つようになったんだろう? ……やっぱり……二ヶ月前にご両親を亡くされたせいなのかな。その日から今日まで、ののちゃんは私達の知らないところで変わっていったんだな。そうじゃなかったら、一人で生活してゆくなんてできないのかもしれない。自分を強く保たなきゃ、現実を直視しなきゃ、年端の行かない女の子が一人で生活してゆくなんてこと、できないのかな。初めて会ったときはまだお子様の面影があった希美が、いまは藤葉の知っている誰よりも逞しく思われたならなかった。その一方で、あの頃の――死んだ妹に重ね合わせて見、時折わけ知らずかばってあげたくなってしまう存在だった希美を、懐かしく思った。
 ――これから先のことを考えたら、とても怖い。
 ――空き缶を捨てるようにポイ捨て。人間のやることじゃないよ、そんなの。
 そんなものなんだろうか、と藤葉はしばし考えた。が、考えてみても未知の世界は華やかさばかりがめだって、その影に潜んで誰彼を蝕んで暗闇の底へ引きずりこむ魔法のことは曇りがちだ。
 でも、ののちゃん――
 「彩織ンは知ってるの?」
 答えは容易に想像できた。二者択一、正解する確率は二分の一、フィフティ・フィフティ。そしてその答えを巡る二人、希美と彩織の話し合いの結果も。
 希美は首を振った。
 ああ、やっぱり。でもこの二人なら大丈夫だろう。揉め事も諍いも起こさず解決するに違いない。――藤葉はそんなことを漠然と考えながら、「そう……」と呟いた。
 教職員と来校者用の昇降口を左手に過ぎ、階段を降りて一階の高等部用の昇降口に入ろうとした矢先だった。なにやら音がして小さな悲鳴が起こり、続けて、五メートルぐらい右手のタイル張りになったグリーンベルトへのアプローチに、バン、となにかが叩きつけられ、割れる音が響いた。その直後、再びなにかが割れる音がした。二度目の音がしたと思しき場所に、頭からコートをずぶ濡れにした三年生が、半べそで立ち呆けていた。
 それを見た周囲の生徒達が騒ぎはじめる。下駄箱の前で身をすくめ、寄り集まり、しまいかけた靴を手にして中腰のまま、被害者の三年生に視線を釘付けにされた生徒がいる一方で、慌てふためいて周囲をキョロキョロと見渡したり、一緒にいた連れと怖さのあまり腕を組んだり、きゃっと叫んで抱き合ったり、階段を駆けあがって一階の昇降口を入った正面にある事務室へ向かう生徒もいた。職員室へ行こうにも昇降口でパニックが発生しているので、事務室に駆けこんだ方が早い、と判断したのだろう。それは懸命な処置だった。その生徒よりも前に立って、二人の事務員が必死な形相で走ってきた。
 様子を少し離れたところから見ていた(希美と藤葉と同じクラスの)生徒がホームルームの始まる前に、「最初にね、三年生の頭に水がザパア、ってかかってきて、そうしたら今度はそのすぐ横で、水が詰まった風船が破裂したんだよ」と“解説”した。誰がやったのか? みんなはそれを知りたがった。その生徒の曰く、「わかんないよ、そんなの。でもさ、何階かの使ってない教室のバルコニーに、誰かの影が見えたんだよね。すぐに引っこんじゃったから、誰かはわかんないけど、その人が犯人なのかなあ。……そんなこといったって、はっきりと見たわけじゃないもん」と。希美も音のした数瞬後、校舎を見あげたが、そのときには同級生のいう人影はどこにも見あたらなかった。
 やがて事務員二人が、息せき切って到着した。その中には保険医や数人の教師もいた。教師らはその場をなかなか離れようとしない(離れられなかった)生徒達に、早く校舎へ入って教室に行くよう促した。例の三年生の前に立った保険医の池本玲子は、生徒の髪やコートや持ち物をすばやくタオルで拭き、声をかけながらそのまま保健室へ連れて行った。
 しばらく希美と藤葉は顔を見合わせていたけれど、まわりの騒ぎが収まるにつれて平静を取り戻し、自分達のクラスの下駄箱へ足を向けた。なにか喋ろうとしても、互いに言葉が出てこなかった。
 そう、
 「なにかあったの?」という、陸上部の練習を終えて頬を上気させ、額に汗を浮かべたジャージ姿の美緒が後ろに(なんの気配も前触れもなく)現れて声をかけ、二人を下駄箱前の簀の子から数センチ、飛びあがらせるまでは。□

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