第2407日目 〈『ザ・ライジング』第2章 4/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 「いま配った進路志望の用紙は来週の月曜日に回収するからね。じゃあ、ホームルームはこれで終わります。――あ、日直、一緒に職員室に来て」
 二年三組の担任、高村千佳は出席簿と教務手帳を持って教壇をおり、日直の生徒を従えて、教室を出て行った。黒板の上にかかった時計の針は八時四十五分をちょうど指したところ――一時間目の代数幾何が始まるまで、あと五分あった。高村に呼ばれた生徒が自分のグループの仲間をちらりと見て、ドアを閉めると、常のことながら、かしましくもかまびすしいお喋りが、教室のそこかしこで始まった。
 この日の朝、生徒達の話題は三つに大別された。
 一、進路のこと。
 二、今朝の水爆弾事件のこと。
 三、希美と彩織のこと。
 中でも水爆弾事件についてがいちばん多く話題にのぼり、情報通を自負する生徒が、水をかぶった三年生の過去にあった“よからぬ事情”を開陳し、恨みを抱いた学生が報復したのだ、と自説を滔々とぶって語り、、自分のいるグループや同じ派閥のグループから讃仰されていた。一方では“信頼できる情報筋”から仕入れてきた噂――実は水をかぶった先輩は事故に巻きこまれたのであり、本当の目標は他にいた、とか、空き教室の掃除をしていた一年生がなにかの拍子に誤ってバケツを落としてしまい、中身があふれ、バケツが落下したのだ、とかそんな程度の噂を「ここだけの話だよ」との枕詞を置いて、さも真実らしく仲間に吹きこみ、グループや周囲の面々から呆れ顔で見られているのに気づかぬ者もあった。じゃあ、二個の水の詰まった風船はどうなるのよ、とは誰もが思っていながら、誰もいい出さずにいた指摘である。第一、バケツが落ちてきた、なんていま初めて聞いたし、あんたの他には誰もいってないよ。
 それに較べて希美と彩織の話題はホームルーム前こそ盛りあがったものの、同級生達は「おめでとう、選ばれるといいね」と本人達に声をかけると、さして話すこともなくなってしまい、自然と話題の花としての勢いは落ちた。ホームルームを挟んでときどき昨夜のテレヴィ番組を見たよそのクラスの生徒達が何人かで連れだって、二人を見物にやってきているのは、視界の端にとらえられたから、希美と彩織にもわかっていた。が、二人とも敢えて無視した。視界の中心に持ってこず、努めて気がつかないふりをした。昨夜のテレヴィがどうあれ、芸能人ではないのだ。美緒と藤葉も二人の意思を尊重した。ちなみに件の国民投票で上位十人に入ったそれぞれの順位と票数は次の通り。宮木彩織(受付番号12420)――6位、6486票。深町希美(受付番号12433)――7位、6478票。
 もう一つ、進路について活発に話しているのは、教室の前の方に席を占め、いつも教科書とノート、参考書を広げて机にかぶりついている、〈だいはかせ〉のグループだけ。ご丁寧にもビン底眼鏡に三つ編みの古典的スタイルを、グループ五人が一様に守っていた。そんな彼女らを評して隣に座る森沢美緒は「息がつまるくらいに重苦しい」といい、「せっかくの制服がだいなし」という。視力のよくない美緒は授業中だけ眼鏡をかけているが、それもあって四月の初めてのホームルームで席替えをする際、高村に直訴して教壇のいちばん前の席を確保した。〈だいはかせ〉達は思わぬ障害が発生したことで憤り、教壇の前を取れなかったことにあれから八ヶ月が経ついまでも美緒を快く思っていない。しかし、成績ではどうあがいても美緒に太刀打ちできないのがわかっているものだから、その恨みも空回りに終わっているのが本当のところである。もっとも、クラス、学年それぞれ総合一位、冗談で受けてみた国立大学と私立大学の全国統一模試でも総合一位という記録(伝説とも呼ばれた)を持つ美緒に、果たして誰が太刀打ちできようか? ついでにいえば、藤葉は美緒と同じ列のいちばん後ろに坐っており、水泳部の朝練があるときはたいてい午前中を熟睡して過ごし(休み時間だけもそもそと起き出してくる)、テスト前になると美緒のノートをコピーしたり、美緒の家にこもって大騒ぎを始める。……とまれ、〈だいはかせ〉らを除けば進路についてその朝、まじめな話をするものはなく、気を滅入らせ、溜め息混じりに用紙を鞄の中にしまいこむのが関の山だった。
 常のことながら、教室はかしましくもかまびすしいお喋りに満ちていた。□

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