第2409日目 〈『ザ・ライジング』第2章 6/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 二時間目が始まるころには件の三年生もすっかり落ち着いた。彼女は池本玲子へ丁寧に礼をいって保健室を出て行った。しばらく一人でゆっくり過ごせるかな、この際だから溜まった書類を片付けようか、と考えて特に急ぎのものがあるか探してみたが、年が明けて取りかかってもまったく構わないものしか、机の上にはなかった。そりゃそうよね、一昨日ここで奴隷相手に発散した後、余力を駆って端から片付けてしまったのだから、残りがあろうはずはない。私の記憶も鈍ってきたかな、と苦笑すると、彼女は陽の当たる場所に椅子を動かして腰をおろした。
 いちばん上の引き出しに手が伸びた。鍵が掛かっている引き出しだった。そこにはこれまでずっとくすぶってきた想いを寄せる男の写真があった。この人を私に振り向かせられる日は来るのかしら? 障害ができてしまっている以上、それは難しいかもしれない。でも、かといって忘れられる想いではなかった。一生を費やしても、忘れることはできないだろう。暗い情念がいつも以上に池本の魂を蝕み、闇に捕らえて放そうとしない禍々しい意志が池本の魂を握りつぶそうとしている。それを彼女はしっかりと自覚していた。あの人を手に入れるためなら、殺人だってやってやる。ヘイ、ヤッホー、やったろうじゃないか。あなたの隣にいるべきはあのガキではなく、私なんだ。なんとしてでも奪ってやる。
 そんなことを考える一方で、
 ──ワーグナーでも聴こうかな、『トリスタンとイゾルデ』……はやめておこう、もっと他のなにか……ちょっと渋めに『リエンツィ』でも。と、視線を棚の上に置いたラジカセに走らせたときだった。頭痛の種がガラリ、と扉を開けて入ってきた。池本はその生徒の顔を見た途端、気づかれぬような溜め息をもらした。
 「おばさま」とその生徒は大股に歩きながら、こちらへ近寄ってきた。顔色が悪いように見えるが、この子のことだ、と池本は考えた。おおかた自分の気に喰わないことでもあったか、あるいは授業をさぼりたいがためのお芝居だろう、と。いずれにせよ、担任には報告しておく義務がある。
 「なんていっておく?」
 「ん、任せる。少ししたら教室には戻るから、心配しないで」
 いや、別にあんたの心配なんかしてないけどね。報告を怠ってお目玉を喰いたくないだけよ。よほどそういってやろうと思ったが、この生徒にそんなことをいうのは時間の無駄のように思えた。叔母と姪という関係ではあるが、そこに血縁者に独特なある種の絆というものはなかった。池本と他の親戚にはつかず離れずの親戚関係があったけれど、目の前にいて突っ立っている生徒と池本の間に血縁意識がなさしめる同胞の親しみはない。まだ幼稚園に通っていた時分に会ったことはあるが、一時間ばかりしか顔を合わせていないし、遊んだわけでもない姪とこの学園で再会しても、関係が密になるわけでは到底なかった。およそなにか共通の目的がない限り、この子とそんな風になることはあるまい。そう池本は確信していた。
 池本は電話を取って内線をかけた。ここにいる生徒──赤塚理恵の担任は、果たして職員室にいた。体調が優れないようだからしばらく保健室で寝かせます、授業が終わる前には教室へ戻せると思いますので、授業をしている先生にそう伝えてください、とささくれだった口調でほとんど一方的にいうと、すこぶる荒々しく受話器を置いた。
 赤塚の担任はこの学園でも古参の一人になるが、一方で生徒や女教師をつまみ喰いすることですこぶる有名な男だった。噂は事実であるがかなり誇張されている部分もあるので、おいそれと訓告の対象にもできず、それ以上にこの男が教育委員会にも発言力を持つ県会議員の息子でもあるため、学園としても(池本と赤塚の祖父である理事長としても)なかなか注意ができないのだった。事実、池本もここに赴任したその年、ずいぶんとこの男に言い寄られ、セクハラ紛いのことをされて不快な思いを味わった。が、彼は持ち前の鋭敏な嗅覚で、池本の中にいい知れぬ恐怖を感じ取ったらしい。だがそれがなんだったのか、はっきり見極める前に、住まうマンションの前で柄の悪い男達に痛めつけられた。以来、彼が池本に手を出すことはなくなった。いまでも誰彼と手を出しているが、その欲望が池本へ伸びることはなかった。ただときどき、ねっとりとした視線を投げかけられることはあるが、危害を加えるまでには至らなかった。ハレルヤ。□

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