第2410日目 〈『ザ・ライジング』第2章 7/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 「本当に体調が悪いの?」
 わざとらしいぐらいに親しみをこめたいい方で、池本は姪に訊いた。
 「うん。今日はね、本当に体調が悪い」
 オウム返しに答える赤塚の背中を蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、どうにかそれは抑えることができた。
 「ベッドで横になっていい?」
 「いいわよ。好きなとこで寝なさい。──あ、そうだ、私、今夜の夕食会には出られないから。お祖父様や他のみんなにそういっておいて」
 赤塚が無表情に頷いて、ベッドへ向かった。それを横目で見ながら、椅子を机に向けて池本は、「仕事させてもらうよ」とだけいって、いますぐに目を通す必要もない書類を手にした。早く出ていってくれないかな、安心して写真も眺められないじゃない。
 保健室にはそれから数分、静寂の時間が流れた。時計の針が動く音、ストーブの上に乗せたやかんの口から立ちのぼる湯気と蒸気の音、二人の息づかいと赤塚がベッドの上で寝返りを打つ音だけが、その静寂を破ろうとしていた。
 「ねえ、おばさま?」
 カーテンの向こうから姪の声がした。「なあに」と池本は、そちらに目を向けることなく答えた。
 「昨夜の番組、観た? ハーモニーエンジェルスの新しいメンバーを募集してたんだけど」
 「ううん、観てないよ。興味ないしね。……それがどうかしたの?」
 「私さ、応募してたんだよね」うつろな声だった。
 「あ、そう。それで?」
 そういいながら池本は、「ちょっと、いまなんていった?」と口の中で訊ねた。ハーモニーエンジェルスの新しいメンバーの応募にあんたが参加した? あらまあ、と放心に近い状態で彼女は思った。世も末だわ……新世紀になってまだ二年なのに。ただね、お祖父様の顔に泥を塗るのだけはやめてよね。まあ、私もあまり人のことはいえないけれど、自分以外に知る人はいないし、私の場合は趣味だからね、男を手玉にとって隷属させるのは。進んでこういう状況を生み出してるわけでもなし、全部男達が自分から身を捧げてきただけのこと──あ、だけど〈彼〉、進路指導を担当している色っぽい先生を恋人に持つ講師の場合は、そうね、あれだけ例外か。あれは私がてなずけたんだから。それはともかくとしても、へえ、あんたがねえ……。
 「選ばれたの?」と、あるはずもない結果を口にしてみた。これでイエスなんていわれたらどうしよう。だが、杞憂だった。
 「ううん、だめだった……三組の宮木さんと深町さんは上位の十人に選ばれてたけど、私なんか名前も出てこなかったよ」
 カーテンの向こうに耳をすませてみると、涙をすする音がした。演技ではなさそうだ。本当に泣いている。
 池本は椅子から立ちあがると、足音をたてずにベッドへ歩いていった。そっとカーテンを引き、こちらに背を向けて肩を振るわせている姪の肩に手を置いた。それはなだめるようでもあり、親しみがこもっている風でもあった。それをさせた感情が果たして真実だったのか、それとも、自分の脳裏へ瞬く間に思い浮かんだ、だがまだはっきりと形を成していない計画を実行するための計算ずくの行為だったのか、池本玲子は後になってさんざん考えてみたが、いつになっても答えは出せそうもなかった。
 いきなり身を起こした赤塚が、池本の胸へ飛びこんだ。「くやしいよ」とひたすら繰り返し呟きながら。下着を着けていない胸に顔を埋める姪の頭を撫でながら、池本はなにかいおうとして口を開いたが、いうべき言葉もないことに気づくとそのまま口を閉じた。
 「選ばれなかったことなんてどうでもいいの。みんなが陰で私を笑っているのに耐えられないの」
 なるほど、そういうことか。砂上の楼閣に住む勘違いお嬢様には、その結果は残酷だったかもね。あれだけのアイドル達の追加メンバーの募集となれば否が応でも衆目を引くだろう。そこにあんたは十代の記念(うーん、そうだったのかしら?)に応募した。結果は芳しくなかったけど、その結果が最悪だった。それに輪をかけたのは、同じ学校の、しかも同学年の二人が名前を呼ばれたことだった。その番組を観ていた人々があんたのみじめっぷりに注目して、陰でこそこそ額を寄せ合い笑ってる。なんでもないことじゃない、といってやればいいのだろうが、いまはそんな風に励ます言葉も喉元にはあがってこなかった。
 ふと、最前頭をかすめていった計画が明瞭な形を取って、池本の脳裏に再び浮かびあがった。あのガキをあの人から遠ざけるために、私は奴隷を使う。完膚無きまでにガキを痛めつけ、あの人を私に振り向かせるために、私はてなずけた奴隷を使う。あのガキは姪の逆恨みを買ったことだろう、本人はまだ知らないだろうが。赤塚理恵はそう簡単に気持ちを切り替えない。相手を傷つけずにはいられない女だ。ならば、と池本は考えた。私の計画にこいつを(白衣とお気に入りのセーターを涙で濡らしてくれている薄汚れた姪とやらを)巻きこむのもいいかもしれない。理恵ちゃん、あんたも奴隷と一緒に共犯になってもらうよ。
 ヘイ、ヤッホー、やったろうじゃないか。
 胸に顔を埋めて泣きじゃくる姪が、無性に愛おしくてたまらなくなった。抱きしめこそしなかったものの(これ以上セーターが濡れるのはごめんだった)、優しく髪を撫でて囁いた。「ねえ、理恵ちゃん。今夜、私の携帯に電話しなさい。もしかしたら、いい話ができるかもしれないから」
 赤塚が顔をあげるのがわかったが、そちらを見るつもりはなかった。せっかくまとまりかけてきた計画が雲散霧消してしまうかも、と考えたからだ。ただその代わり、「きっと君も気にいる話だと思うよ」といい加えた。
 たまらなくいい気分だ。もうすぐ私の想いは実を結ぶ。仕方ないから、あんたの望みも叶えてあげるわ。□

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