第2414日目 〈『ザ・ライジング』第2章 11/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 昼休みが終わる十五分ばかり前、午後からの授業のために出勤した音楽講師、上野宏一は進路指導を担当している大河内かなえから一通の書面を、職員室横の講師控え室で受け取った。二人きりの控え室だった。生徒達の声は耳をすましてみても聞こえてこなかった。教師達もよほど用がない限り、ここに顔を出すことはない。
 体の線にぴたりとあったブラウスは否が応でも豊満な乳房を強調し、ミニのタイトスカートからすらりと流れ出る足を視界の端でとらえ、下半身に熱いものを覚えながら、
 「なんですか、これ?」
と上野は訊いた。おそらくこれはコピーされたもので、原紙はきっともう進路指導室のファイルに綴じこまれているんだろうな、と考え、ちらりと上目遣いで、唇に誘うような笑みを浮かべる大河内を見やった。
 「吹奏楽部に深町さん、いるでしょ? その子の“引き”よ。――静岡県警からのね」
 「――県警? 県警の音楽隊が深町を欲しがってるのか? へえ、さすがだな……まあ、あの子なら中央でやってゆくだけの実力もあるから、誘われてもふしぎじゃないし、こっちも自信を持って送り出せるけど……」
 「けど、なに?」
 大河内は上野の荷物をどかして机の上に座り、指でスカートの両端をつまんで太腿までめくりあげながら、彼の正面で足を広げた。上野が反応せずにじっと自分を見あげているのに不満だったか、彼女はさらにスカートをずらして、ガーターベルトをはずし、ひもで結んだ黒いパンティを見せつけた。そして、彼の手を取って指を絡ませると、自分の秘所へ導こうとした。が、上野はそれを払いのけた。
 「ここじゃできないよ、かなえ。見つかったら俺は即座に解雇だ。ここの常勤のポストが欲しいんだよ、俺は? おまえだってわかるだろう?」
 「そりゃあね。でも、もう三日もしてないのよ、我慢できないわ。それとも、なに、セックスレスを理由に三行半突きつけたっていいわけ?」くすくす笑いながら、大河内は訊いた。「いいわ。その代わり今夜、たっぷりとしてもらうからね? ……で、深町さんの話。けど、なんなの?」
 「ああ、深町ね。あの子はさ、才能もあるし、実力も――おそらく全国レベルで見たって上の方にいると思う。いますぐにプロでもやっていけるだろうけど、できればね、指導してる側としては音大にね、行ってもらえたらな、と思ってるわけさ。もっとも彼女は家庭の事情が特殊だからな。確か亡くなったお父さんって警察の人だったんだよね? そうか、県警っていうのはそれの絡みか……。じゃあ、これが最良の選択なのかもしれないな」
 大河内はそれに相槌を打って答えた。「そうね、深町さんはもうこれから一人だしね……卒業したら働かなきゃならないわけだし。才能のある子が自分の実力を磨くこともできずに社会へ出てゆく、っていうのが、送り出す方としてはいちばん辛いわね……」
 「そうだなあ」と上野は頷いた。いつか深町希美がひとかどのテューバ奏者になるのではないか、と内心とても楽しみにしていたからだ。
 「あの子には幸せになってもらいたいわね、白井君と」
 「白井?」どこかで聞いた名だと思いながら、上野は訊ねた。「誰、それ?」
 「覚えてないの? 教育実習で来ていた白井君。深町さんと現在相思相愛中。女の勘だけどね、あの二人、結婚するよ、絶対」
 「へえ、知らなかった。学園にいつもいると、そういう情報も耳に入ってくるんだ?」 「うらやましい?」大河内は上野の掌を、ブラウス越しに乳房へ押しあてさせながら訊いた。恋人が頷くのを見て、彼女は笑んだ。「じゃあ、私のためにも好印象残して、年度を終わってね。そうしたら、常勤になれるだろうし、私達もまじめに結婚を考えられる。たまには、学校の中でできるかもよ?」
 「今夜、どう?」と上野は訊いた。「久しぶりに君の部屋でやりたい」
 いいわよ、と大河内は囁いて、上野の唇に自分のそれを重ねた。「あなたの方が先に終わるわよね? はい、鍵。先に行って待ってて。た・だ・し、タンス引っかきまわさないでよ?」
 「わかってる、わかってる」と笑いながら、上野は大河内のやわらかな太腿と秘所のすぐそばに、強く唇を押しあてた。「浮気防止だよ」
 「しないわよ、あなた以外の人となんて」
 もう一度、二人は唇を重ねた。
 大河内は机から降りると、衣服の乱れを掌で直し、「それじゃあね。授業、がんばって」とウィンクしながら、控え室から出て行った。
 それを見送ってから何気なく鼻をすすった。そこいらに、大河内のつけていた香水の匂いが漂っているのに気づくと、彼は慌てふためいて窓に駆け寄った。寒風が容赦なく入ってくるのも構わずに、窓を全開にして、何度もくしゃみしながら香水の匂いが早く消えてくれることを祈った。
 だって、そうじゃないと……。
 香水の匂いは消えただろうか? 試しに窓を閉め、鼻をくんくん鳴らしてみた。けっして鼻は悪い方ではない。いや、むしろ、困るぐらいによい方だった。うん、もう平気だろう。でも、念のために、もうちょっと……。
 また窓を開けて、手近にあった雑誌をうちわ代わりにしてそこらをやたらめったら扇いだ。数分が経って、その日のその時間、彼と一緒に控え室を使う書道の講師がやってきた。扉が開いた瞬間、上野は派手なくしゃみを三回、立て続けにして、講師の失笑を買った。□

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