第2415日目 〈『ザ・ライジング』第2章 12/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 校舎の中はいつに劣らず寒暖の差が激しかった。空には一点の曇りもなく、陽射しをやわらげたりさえぎるものもなかった。グリーンベルトの百葉箱の中にある温度計は十八.五度を示していた。春を思わせるような陽気だった。とは申せ、校内の陽光が射しこまない場所へ足を踏みこめば思わず体が震え、ジャケットの上にコートでも羽織りたいと思わずにはいられないぐらい冷えたところがあるのも、やはり事実だった。この季節になると夏とは反対に教室であれ職員室であれ図書室であれ、窓際かそれに準ずる場所――陽光の注ぎこむ範囲内――へ人気が集中するのは、やむなきことであった。
 希美と美緒は図書室を後にして教室へ戻る途中だった。二人は窓際に生まれて沿うように伸びる日溜まりの中を、ぽっくらぽっくらお喋りしながら歩いていた。
 ほぼ同時に彼女らは「あ、そうだ」といって相手の顔を見た。希美はエレベーターホール裏のフリースペースにある自動販売機が直っているのを思い出し、美緒は五時間目の授業がいつも十分おくれて始まる世界史だったことを思い出し、まったく同じタイミングで相手に「ねえ、ジュースでも飲んでいかない?」と提案した。一瞬の間が空いて、あたりに元気な笑い声が重なってはじけた。

 職員室でぼんやりとしながら、高村千佳は机の上の封筒をもてあそんでいた。その日何度めかの溜め息をついた。しかし視線は積み重なった書類の一番上に、無造作に置かれたファイル――自分のクラスにいる生徒達の、出身中学からの内申書の写しや入学時に回収された身上書、一年生のときの成績や素行を当時の担任達が記した書類、部活動報告書(これはもちろんそれぞれの顧問が書いた。試合やコンクールなどの結果も、ここに記録されていた)、年三回の健康診断のカルテの写しなどを、それぞれの生徒ごとにわけてすっかり膨れあがったA4の分厚い表紙のクリアファイルだった――に、じっと注がれている。彼女は、そうか、私が学生だったときも、こんな風に私の記録も管理されていたんだな、といまさらながら思い至った。
 高村は封筒を受け取った二時間目の授業が終わった休み時間から数えて何回めかの溜め息をついた。だがその溜め息は、失望や悩みのそれではなく、安堵を端々にちりばめた満足げなものだった。
 頭を二、三度振って意識をはっきりさせ、そっと目を左右に走らせた。誰も周囲にはいない。右手の人差し指と親指で輪っかを作り、自分の額を軽くデコピンしてみる。ぱちん、と乾いた音がした。
 封筒を天地逆にして中身が、すとん、と落ちてくるのに任せた。高村はそれをつまんで広げてみた。差出人は静岡県警の音楽隊の隊長からだった。大意はこうだ。音楽隊として進路指導の先生宛に出したもの以外、二年三組担任である高村へ私的に一通差し出す無礼を許していただきたい。先生のクラスにいる深町希美さんのことだが、かねてお父上から聞いていた深町嬢の希望もあり、本人さえ最終的に承諾してもらえるならば、卒業後は是非、彼女を当音楽隊に迎えたい。実は深町氏とは警察学校時代からの友人で、その関係もあって吹奏楽コンクールの東海大会や貴校の文化祭などで深町さんの能力の高さには、個人としてのみならず音楽隊として大変感銘を受けていた。彼女の才能を我々の中で花開かせて思う存分羽ばたかせてもらいたい。そう書いて結んであった。
 県警の音楽隊か……音楽のことはよくわからないけれど、深町さんにとってはけっして悪い話じゃない。ううん、事実はそのまったく逆。考えてみれば、縁もゆかりもない職場ではないのだし。
 「……芸は身を助ける、っていうことか」
 これは、と高村は考えた。希美のいまは亡き両親が死後に残した贈り物かもしれない。人生の経験値が低い少女には、これ以上にないほどの哀しみと苦しみがつまった二ヶ月だっただろう。それも希美の両親の事故は単なる事故ではない。緊迫していた――そして自分達に火の粉が降りかかるなど思いも及ばぬ、悪化してゆく一方の世界情勢の犠牲になったのだ。そんなる両親からのプレゼント。これを活かすか否かは、深町希美の意思次第。
 大河内先生の手許に音楽隊からの手紙はあるはずだ、と高村は考えた。五時間目の授業が終わったら、吹奏楽部の顧問代理の上野さん(今日ってあの人、授業あるよね? あ、あるね、ちょうどいいや)も一緒にこの件について話し合おう。あの子に伝えるのは放課後になっちゃうけど、でも、遅くはないよね。
 そう考えをまとめると、なんの気なく腕時計に目をやった。あと十分もしないうちに昼休みが終わる時刻だった。□

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