第2422日目 〈『ザ・ライジング』第2章 19/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 椅子に坐りこむなり、わけもなく高村は疲れを覚えた。疲れの原因が背中の痛みにあるのは明らかだった。五時間目の授業がなくて、助かった……。こらえられないというわけではないが、さりとてずっと立っていると背骨が折れてしまうのではないか、と心配になる。これが腰だったら教師という仕事の宿命かな、と考えて救われる部分もあるが、背中となるとそうもいかない。なんとかしておいた方がいいに決まっている。なるべく早いうちに。
 保健室に行って湿布でも貼ってもらおうかしら? 池本先生と久しぶりにお喋りするのもいいな。
 そう思い至って席から立ちあがろうとしたが、時計を見てまた腰をおろした。まだ休み時間だ。きっと保健室には生徒の誰彼がたむろしているだろう。そんなところにのこのこと出掛けていって、湿布貼ってください、なんていうつもり? 生徒の笑いの種になるのは、火を見るより明らかだった。プライドが傷つくわけでないが、笑われるのはなんだか癪に障る。それならあと少しの時間、痛みをこらえて席にいる方が懸命というものだ。
 高村は椅子をぐるりと回転させ、密生した常緑樹を窓越しに眺めた。高等部の学生だったときは、自分がここに坐っているなど想像したこともなかった。そもそも教員になろうと考えたことすらなく、なんとなく大学に行って、なんとなく卒業して就職し、なんとなく結婚して家庭に入るものとばかり思っていた。なのに、なんで私、教職を選んだんだろう? きっかけになるような教師と出会ったわけでもないし、理想があったわけでもない。
 私、いつまで教師やってるんだろう?
 「どうかしましたか、高村先生?」
 気がつくとそばに、隣のクラスの担任が立っていた。若い男の教師で、昨年の春に着任した。ときどき、職員室にいると、この男の視線を感じることがあった。池本先生がいってたっけ、この人、私に惚れてる、とかって。ねえ、本気なの、と高村は訊ねたくなった。
 「どうかしたんですか? 顔が赤いですよ。もし体調が悪いんだったら――」
 「大丈夫よ」と高村は答えた。謂われもない怒りが鎌首をもたげたが、すぐに自分のイライラを鎮めて、いった。「ありがとう、心配してくれてるのよね?」最後はなんだか誘うような口調だったが、気に病む必要はない。もしこの男が本当に自分を好いているのなら、つきあってみてもいいだろう。
 彼は頭を掻きながら、なにかを思い出したように高村を改めて見ながら、
 「そういえば、放課後に使う教室のことで事務室の人から言付かってきました」
 「ん? ああ、補習授業のことか」
 「大変ですね、学年主任になると」
 「私よりも適任がいると思うんだけどねえ。でもね、じきに君もやることになるのよ」
 それを聞いて彼は、うひゃあといいながら顔をしかめた。それがあまりにおかしな表情だったものだから、高村は思わず吹き出してしまった。彼はそんな高村を見て、どう反応していいものか迷い、その場に立ちつくしていた。
 ひとしきり笑ってから、高村は彼の方に目をやり、「うん、それで教室がどうしたって?」と訊いた。
 「ああ、申請されていた403教室を使ってください、って。あすこって確か視聴覚機材のある部屋ですよね?」
 「そうよ。機材の確認もしておかなきゃな。ありがとうね」
 その若い男は照れながら、その場を離れて自分の席に戻った。
 休み時間が終わったら鍵を持って、視聴覚機材がちゃんと動くか確かめに行こう。
 そう考えて、マグカップを手にした。空だった。コーヒー入れてこようかな、と背中の痛みに耐えながら腰をあげたときだ。肘がぶつかった拍子に、積みあげてあった書類の山脈が轟音をあげて崩れ落ちてきた。□

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