第2423日目 〈『ザ・ライジング』第2章 20/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野宏一はシャツの胸ポケットにしまっていた携帯電話が、低く唸りながら震えているのに気がついた。バイブレータ機能にはいまだ馴れず、着信があるたびに心臓が停まる思いをする。大河内には、胸ポケットに入れなきゃいいんじゃない、と至極もっともな意見を頂戴しているのだが、つい癖でそこに突っこんでしまう。鞄に入れていると紛失するような気がして不安なのだ。
 フリップボディを開いて相手が誰かわかると、思わず顔をしかめた。畜生……。
 携帯電話の震えはやむ気配がなかった。苦虫を噛みつぶしたような表情で、上野は通話ボタンを押した。
 「もしもし?」そう低く押し殺した声で相手にいった。
 「――私だけど。出るのが遅かったわね? 大河内先生とラヴ・シーンの真っ最中だった?」
 「違いますよ」と簡単に答える。
 それが気に入らなかったのか、相手の女性はひどく冷ややかな声でいった。
 「いますぐいらっしゃい」
 お誘いか、と上野は口の中で毒づいた。もうあんたとは終止符を打ちたいんだよ、俺は。 「なぜなんです?」
 答えのわかりきったことを訊ねてみた。ああ、この女王様はどんな反応をするのだろう……。いったあとでそれを想像すると、空恐ろしい気分に襲われた。
 「わかってるくせに」と相手の女はいった。
 六時間目開始のチャイムが鳴り響いた。相手の声の向こうからも、同じ音がかすかだけれど聞こえた。
 「次、授業はないのよね?」
 上野は黙りこんだ。こいつは俺のスケジュールをすべて知っている。だが、それは難しいことじゃない。同じ学園に勤める者なら誰もが誰かのスケジュールを知ることができる。こいつと俺の間柄じゃなおさらだ。
 女はぞっとするような低い笑い声をあげると、「じゃあ、来なさいよ。私の望んだときに私の相手をする、って誓ったのはどこの誰だったかしら?」といった。
 どうする、上野宏一? 悩む必要はない。行くしかないよな。いや、断るんだ。そんな勇気もないのか? お誘いなんかつっぱねちまえよ。お前にはかなえがいるじゃないか、話も気持ちもばっちり合う最良のベターハーフのかなえが。セックスの相性もこれ以上は望むべくもない〈最高の女〉が? なら……あの女につきあうことは、ただの苦しみしかもたらさない。ああ、かなえといるときの幸せなんて、欠片も感じないしな。俺があの女といて覚えるのは、苦痛と屈辱、そして、ほんのわずかの快楽――それも結構後ろめたい。
 悲しむべきかな、否定せねばならない欲望がおもむろに鎌首をもたげてきているのがわかった。その証は――ほら。上野は努めてさりげない風を装って、持っていた教科書や楽譜で前を隠した。あたりを見廻してみる。けれども、誰もいなかった。彼は我知らず、安堵の溜め息がもれるのを感じた。
 しかし、この火照りは鎮まりそうもなかった。これを手早く解決するための方法をいろいろ考えてみる。……大河内はこれから授業がある。口説いて空き教室に誘うことなんてできはしない。俺にはここの音楽教師のポストが必要なんだ。かなえとの未来のために。そんな大それたこと、できやしない。……じゃあ、トイレに籠もって自慰でもするか。おい、馬鹿野郎、お前はなにを考えてるんだ。それがあの女にばれたから、この地獄を味わっているんじゃないか!? じゃあ、どうする……。あの女の姿が目の前に浮かんで、簡単に消えそうもなかった。あの扇情的なまでの肢体……かなえに優るとも劣らないあの肢体。
 そうか、それしか手段はないのか。□

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