第2424日目 〈『ザ・ライジング』第2章 21/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 観念した口調で、「わかった。行くよ」と答えた。知らぬうちに携帯電話を強く握りしめていたようだ。指が強張っていた。「だけど、すぐに終わらせてくれるね?」
 忍び笑いが聞こえてきた。「心配性なのね、上野先生。ううん、君の場合は臆病者といった方がいいかな。そんなにばれるのが怖いんだ、かなえちゃんに?」
 「あいつのことをそんな風に呼ぶな。なんだって――」
 「来るの、来ないの、どっち?」声に怒りの表情がはっきりと読み取れる。「まあ、君に選択肢なんてないんだけどね、わかってると思うけど」
 彼女の意向に逆らう発言は慎むべきだな。そう上野はいまさらではあったが、思い知った。「わかった、保健室だね。いつごろ行けばいい?」
 「いますぐ、っていわなかったっけ?」
 「ごめん」
 「さっさといらっしゃい。それとね、今日は君に大事な話があるの」
 大事な話? いったいなんだというのか? まさか、解放か?
 ぬか喜びする上野の気持ちに冷水を浴びせかけるように女は、
 「いっとくけど、私達の関係を終わりにしましょう、っていう話じゃないからね」
 それきり、電話は切れた。
 苛立ちながら上野は、携帯電話をたたみ、シャツのポケットに無造作に押しこんだ。ストラップがだらしなく垂れさがる。視線を足許から正面へ動かした。講師控え室まであと十五メートルばかり。ライムグリーン色のリノリウムの廊下が、不気味に伸びている。控え室が実際以上に遠く感じられた。
 あすこまで歩くのか、やれやれだな。気分はすっかり滅入り、足取りは鉛の玉を引きずっているように重かった。
 窓を通して廊下に作り出されていた陽溜まりも、だいぶ少なくなってきていた。窓越しに見える中庭へ目をやる。南南西の空から陽光が、わずかな光の帯を作って射しこんだ。自分の置かれている状況が滑稽に思えるほど、目の前に広がる世界はのどかであった。視線をあげると、三階の廊下を、これから二年生のどこかの教室に向かう途中の恋人、大河内かなえの姿が見えた。上野はいまさらながらに電話の相手との隷属関係を心の底から嫌悪し、恋人の存在を悲しんだ。出会って数ヶ月、深く愛し合っている女を裏切っている自分に吐き気を催し、来し方の罪業に思いを馳せて悔い、嘆いた。
 上野の視線を感じたのか、大河内は足を停め、こちらを見おろした。視線がぶつかり、絡みあった。掌を開いて小さく振り、笑みを浮かべている。周囲を見渡すとやおら口許に指をやり、投げキッスを送ってよこした。その仕草に彼は、胸がちくりと痛むのを感じた。
 大河内はややあって彼に背を向けると、教室の扉を開けて、閉めた。扉を引く音が、はっきり聞こえるような気がした。小さな溜め息……何度目だろう?
 やっぱり断ろう。清算するんだ、今日を限りに。そして、かなえにすべてを告白し、許しを請おう。これ以上かなえを裏切ることはできない。ささいな行為とはいえ、あいつの支配から逃れなくては。今日こそはきっぱり縁を切る、と宣言しよう。
 だが、数分後、保健室へ勇んで足を運んだ上野は扉を開けた瞬間、決意がぐらついて、時間が経つにつれて崩壊してゆき、六時間目終了のチャイムが鳴るころにはまた後悔することとなるのであった。池本玲子の欲望のはけ口となり、その肉体と手練手管を駆使されて、暗い快楽に溺れたがために。そしてそれ故に、悪魔達の所業へ手を貸す羽目になるのだった。□

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