第2416日目 〈『ザ・ライジング』第2章 13/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 自動販売機の前で立ち止まると、さて、なにを飲もうかな、と二人してしばし思案に暮れた。先に決まった美緒が百円硬貨を一枚、投入口に入れてボタンを押した。なににしたの、とニコニコしながら希美は美緒の持った缶を覗きこんだ。「あ、やっぱりお汁粉だあ。美緒ちゃん、いつも飲んでてよく飽きないよねえ……」と感心したように希美はいった。
 「だって、おいしいんだもん」美緒は少し頬をふくらませた。「飲み比べてみた結果、この会社のがいちばん“お汁粉”してる」
 はあ、そうですか、となかば呆れ顔で希美は財布をジャケットから出した。ちりん、と鈴が涼しげな音を立てる。百円がなかったので、五百円玉を入れた。三段に並んだ押しボタンが一斉に赤黒いランプを点ける。数瞬視線をさまよわせて迷った末、一番上の列、右端のボタンを押した。わずかな間があって、自販機の中から低いモーター音が聞こえた。ガコン! 希美は腰をかがめて、乳白色をしたプラスチックのプレートを押しあげ、ホットコーヒーの缶を手にした。小声で「熱ッ!」と呻き、左肘の裏で抱えて、右手の指を耳たぶにやってこすった。
 ……希美ちゃん、コーヒーなんて飲むんだ。
 壁の窪みに設けられた三人掛けのベンチで美緒は、希美の選択を少々意外に思って、感心したような風で呟いた。選んだ飲み物を目にして少々意外に思った。
 いつからコーヒーなんて飲むようになったんだろう? うん、ま、まさか希美ちゃん、モーニング・コーヒーを経験したの!? ――ひゃあ、と心の中で足をばたばたさせながら、そんな場面を妄想していたら、お尻がむずかゆくなった。いや、でも、たぶん違うだろう……。たぶん、まだ希美ちゃんは経験していない。だって……もしそんなことになってたら、ねえ、美緒、あんただって女なんだからわかるでしょう? ……。
 夢にまで現れる〈いとしいしと〉のそれとわからぬ変化に心を痛めながら、自分でもそうとは知らないうちに長い溜め息をもらした。どうやらそれが聞こえたようで、希美は隣に坐りながら、「なにかあったの?」と聞いてきたが、美緒は頬を真っ赤に染めながら頭を思い切り左右に振って、なんでもないよ、と答えた。「変なの」といった希美の声にちょっとだけ傷ついたが。
 「美緒ちゃんってそういうファンタジィとかって、本当に好きなんだね?」
 美緒の膝の上に置かれた図書室の本を見ながら、希美は無邪気な調子でそういった。美緒の家に遊びに行ったとき、部屋の一面の壁を支配するようなどっしりとした木製の書棚――大工だった母方の祖父が、本好きな美緒の中学入学祝いに作ってくれた書棚――にも驚かされたが、それ以上に希美の口をあんぐりと開けさせたのはほとんど隙間なく埋められた本の数々にであった。そこに納められた千に届こうかというぐらいの量の本、本、本……。驚いたままでいる希美を見て、「――私って本だけは捨てられない性分なの。お母さんによくいわれるんだよ、ちょっとは女の子らしい部屋にならないの、って。でも、そんなこといわれたって困るよね。それに、人それぞれだし」とくすくす笑いながら窓べりで話してくれた美緒。書棚に収められた本の多くはファンタジィだった。クリスマスや誕生日の贈り物だったり、お年玉や少ないお小遣いを貯めてブック・オフや古本屋を回って買い集め、読破した、一冊一冊に思い出と感動がつまった本だった。三年前の十二月、『ハリー・ポッターと賢者の石』も発売されたばかりのころでまださほど話題になっていなかった時分だ。たまたま三島駅前のツタヤで立ち読みしていたら、あまりのおもしろさにたちまち物語の世界に引きずりこまれた。なんとかして一日でも早くそれを手に入れたかった美緒は数日後の日曜日、母親と一緒に駅前に買い物に出掛けたときにねだって買ってもらった。ちょっとしたブームが日本中に沸き起こり、短日のうちに本が重版に重版を重ねるようになるのは、それから旬日経ぬ頃である。□

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