第2419日目 〈『ザ・ライジング』第2章 16/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 宮木彩織は欠伸をした。ばれないように口を手で隠し、顔を伏せながら。世界史――というよりも文系の授業はけっして嫌いではなかったが(それが成績に結びつかないあたりが、彩織を彩織たらしめているところであった)、今日はどうにも教師の話へ耳を傾ける気が起こらなかった。昼休みの眠気がここへ至って増したように思える。
 うーむ、眠いや。
 そっと斜め後ろの方へ目をやった。意外にも、藤葉は起きていた。いまにも目蓋がくっつきそうな表情で、黒板の年号やら人名やら事件やらをノートに書き写している。彩織の視線を感じたのか、藤葉はひょいとこちらを見やった。笑いながら掌を見せて左右にひらひらさせた。彩織がそれに答えて、「眠いよー」と口をぱくぱくさせて伝えると、藤葉はすぐにうんうんと頷いて、「私もだよー」とゼスチャーを交えて答えた。黒板に向かっていた教師が生徒達に振り返り、説明を始めた。彩織と藤葉の無言の会話も必然的にそこで中断された。彩織は黒板の文字を書き写そうと前に視線を向けた。美緒の姿が他の生徒の陰から見える。特徴的な開かれた大きな目は、教師とノートの間を行ったり来たりしていた。ののは? 教師がこちらを向いている以上、真後ろを振り返る勇気はなかった。耳をすましてみる。寝息やそれに類する物音は聞こえない。どうやら起きているようだった。
 教師が再び黒板に向かったのを機に、彩織は窓の外へ視線を移した。おだやかな陽光の降り注ぐ窓の向こうに横たわっている街――それは彩織が七歳のころから過ごしてきた、いまとなってはなによりも大切な故郷であった。海と山の間にあってゆめ広いとはいえない世界だったが、ほとんど記憶にない生まれ故郷や、父親の仕事の都合で転々としてわずかな期間しかいなかった西日本の小都市以上に、自分の人生と密に結びついた全世界に等しい街。学校の境界に接して少し離れたところに建売住宅がまばらに建ち並んでいた。それを抱えこむように周囲には緑野が広がり、その一角には既に区割りされたものの建築作業が何年も宙に浮いている一戸建ての予定地が伸び放題の草に埋もれてあった。南へ視線を動かすと東海道新幹線の線路が視界を横切り、あたかもそこを境界線としたかのようにその先から、やや目を凝らさなくてはそうと見定めがたい沼津駅を中心にした市街地が広がっていた。高い建物がないだけ実際以上に街は広大に見える。その向こうには駿河湾が望めた。陽光の照り返しを受けて輝く波頭が見えるような気がした。古の沼津の民を水害から守った千本松原が数キロに渡って西へ延びていた。ののん家やふーちゃん家のある方向や、と彩織は何気なく思った。視界の左手には箱根連峰の稜線がかすかに見遙かせ、その手前に香貫山が鎮座坐し、ゆったりと流れる狩野川が山をぐるりと囲いこむように蛇行して流れ、駿河湾へ注ぎこんでいる。小さな街ながら、彩織にとってはおそらくこれからもずっと全世界であり続けるだろう故郷。
 ――でも、ハーモニーエンジェルスになったら出てかなきゃならない。
 この街を。
 さっきもふいに浮かんだ疑問が、また胸の内に湧き起こった。――果たして自分は本当に芸能人になることを希望しているのだろうか? 本心からその世界で活躍することを欲しているのだろうか? 芸能人にもしなったら、いまのこの生活は失われる。両親と弟がいる日常は過去の記憶に過ぎなくなってしまう。友達と笑ったりけんかしたりの毎日は、おそらく戻ってこないだろう。もう日曜日に朝寝坊する気易さも、家族や〈旅の仲間〉と港へ行って新鮮な魚介類をふんだんに使った料理に舌鼓を打つ地元民ならではの幸せも、すべてが奪われてゆく。そしてなによりも、これまでの、いまの生活を壊して未知の世界へ足を踏みこむことによる不安と恐怖。……自分の芸能界を目指す気持ちは、いったい本当の気持ちなんだろうか……。□

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