第2420日目 〈『ザ・ライジング』第2章 17/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 ――ののかてマジで芸能界に入ることなんて、考えとらんのやろう。
 後ろの席に坐っている親友の姿を思い描きながら、そんなことを考えた。
 ののがいちばん、人生を現実的に考えなきゃならんのや。
 両親の死を契機にして希美が、それまではお子様とも深窓のご令嬢とも感じられた希美が、やけにしっかりした物の考え方をするようになり、ふとした拍子に実年齢以上の存在と見えるようになった。両親の死をきっかけにかねてより志望していた音楽大学への進学を諦め、卒業後は就職することにした一件を、彩織は知っていた。そのことで担任の高村や進路指導の大河内と何日も、何時間も話し合っていたのも。そして……何年かしたら、(おそらく)白井さんと結婚してしまうのだろう、そう彩織はつらつらと考えていた。
 たぶん、ののにとってハーモニーエンジェルスのオーディションっていうのは、夢を見ることに他ならなかったんや。きっと明日にでもののは審査から辞退するんやろな。彩織様にはのののこと、全部わかってしまうんや。なにしろ小学二年の時に出会って以来、ほぼ毎日顔を合わせている親友だ。
 で、その彩織様はどうする気や? ののが辞退しても最後まで戦うか、それとも、一緒に身を退くか? 二つに一つ、さあ、どっちにするんや? ……わからんわ、そんなこと。まだちょっと時間はあるさかい。考えさせてえな。
 ふいに周囲のざわめきが耳へ戻ってきた。さざ波のように、そしてだんだんと大きくなってくる。さわさわ、ざわざわ、ざっぷーん!! ……。
 「――彩織、――彩織ってば!」希美の低く殺した声が後ろから聞こえてきた。ついでに椅子の座部の裏をがんがんと蹴っているのも。ごつんごつん、と振動がお尻に響いてくる。なんやちゅうねん、そんなに叩いたら痔になっちゃうやんか。
 視野の一部が陰った。彩織は息を呑んだ。目の前に世界史の教師が仁王立ちしていた。
 「あ……」といったきり、彩織は二の句が継げなくなった。いつの間に……しかも気配を完全に消してウチの前に……先生、きっと忍者の子孫に違いない。五日前、父と一緒に見たモノクロの忍者映画を思い出した。まあ、それはさておき。
 しまったあ。
 「授業中なんですがね、宮木君?」と教師はうんざりした口調で言った。「いま話していたのはだな、この事件についてはテストの半分を占めるから、丸暗記でいいからきちんと理解しておけよ、ってことだったんだけどね?」
 彩織と教師の視線がまともに合った。お団子頭で瞳をうるうるさせた少女の無言の訴えに教師は赤面し、机の上のワークブックに目を落とした。
 「じゃあな、宮木。お仕置きだ。そのワークブックの……何頁だったかな」そういいながら教師はワークブックを手にして、頁をめくった。「ここから……ここまで。いまやってる時代の部分だな。穴埋め、エッセイ、全部やってこい。年明けの最初の授業のときに提出したら、勘弁してやる」
 「えーっ!?」彩織は教師からワークブックを受け取って、眉間に皺を寄せて訴えた。「これ、全部? マジでっか!?」
 教師が間髪入れずに頷いたことで、彩織はがっくりと、大仰な溜め息をつきながら頭を垂らした。その行動があまりにオーバーだったものだから、クラスの全員が笑い声をあげた。
 希美がどれどれとワークブックを覗きこむ。途端、「げっ」と一声発して押し黙った。結構な分量だった。美緒がじっとこちらを見ている。希美は親指と人差し指で、これぐらい、とその量を教えた。
 ふと顔をあげて黒板の方を見た彩織に、美緒が左手の親指を立てて、大丈夫、手伝うよ、と勇気づけた。彩織はそれを見て、安心したような表情になった。すると教師がなにかを察したのか、美緒の方へ振り返り、
 「森沢、手伝ったりする必要はないぞ。教科書や年表見れば答えのわかるものばかりなんだからな」と釘を刺した。
 今度は美緒がうなだれる番だった。またクラスが笑い声に包まれた。いつのまにか眠りこんでいた藤葉が、その笑い声で起きた。
 教師が腕時計を見ながら教壇に戻るのを見て、彩織は後ろから、アッカンベーをした。希美もそれに気づいて、必死になって吹き出すのをこらえた。
 授業は終わった。起立、礼。□

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