第2436日目 〈『ザ・ライジング』第2章 33/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 部室が用事があるから、といってホームルームが終わるとすぐさま教室を駆け出していった藤葉を待ち(その間、彩織は世界史のワークブックを教科書と年表片手に格闘し、美緒は借りてきた『幽霊の恋人たち』を読み耽り、希美は徐々に青みを失ってあかね色となりさらに墨染めた色へ変わろうとしている東南の空を見つめて物思いに耽っていた――その横顔を、もし美緒が目にしていたら、きっと胸をときめかせていただろう)、携帯電話でそれが済んだのを伝えられると、希美達は自分達の荷物に加えて藤葉の鞄も持って――三人で交代しながら持った――一階の昇降口で藤葉と合流した。
 正門へ歩いてゆく途中、希美は吹奏楽部の、中等部の後輩に呼びとめられ、テューバを購入するに際して注意すべきこと、楽器店の選び方について、今度いろいろ相談に乗ってほしい、ということだった。顧問代理の上野先生に聞いたら一通りのアドバイスはもらったが、そのことなら深町さんにも相談した方がいいね、といわれたらしい。希美は待たせてある三人のことを思うと気が急いたが、詳しいことは明日ということにして簡単にポイントだけ伝えた。それを終えると向き直り、少し離れたところで待ってくれていた(待たせていた)彩織と美緒と藤葉の方へ、八重歯が覗く笑顔で歩み寄っていった――「ごめん、ごめん」といいながら。彩織は校舎の壁に映る自分達の影を面白そうに、体をいろいろ動かしながら眺めていた。
 そのとき、ふいに希美が真顔になったのを、美緒と藤葉は同時に見て取った。口を開くのは藤葉の方がやや早かった。美緒はちょっとの間、藤葉に向かって頬をふくらませたが、希美に向き直るときにはそれもやめた。
 「どうかしたの、ののちゃん?」
 その声に彩織は振り返って藤葉を見、希美を見た。
 希美の視線は自分達の頭上を越え、背後へ注がれている。
 彩織も美緒も藤葉もそれに気づき、希美の視線の先にあるものを見定めようとした。
 老いたる桜の巨樹が一対、正門の脇に鎮座坐していた。まだ花のない枝をいっぱいに広げていた。それは春の入学式の時期には寒気を感じさせるぐらいに美しい花を爛漫と、絢爛に咲かせる。薄紅色の花が一斉に咲き乱れる様はまさしく圧巻、学校案内のパンフレットでも表紙を飾るほどだった。もっとも葉桜のころとなれば毛虫に悲鳴をあげる生徒は、一日に十名や二十名では利かないだろう。
 いまや希美は唇を思い切り噛み、目尻がややさがっているものの目を細め、桜の老樹を見あげていた。
 哀しそう、とその顔を見ながら、美緒は思った。
 「どうしたの、ののちゃん?」
  桜が花をつけていた。この真冬の夕暮れ時に、桜が満開の花を咲かせている。散り舞う花びらさえ、希美の目にははっきりと見えた。もちろん、これが幻であるのは百も承知だ。桜の木の根本には両親が肩を寄せ合って立ち、共にほほえみをたたえながら、一人娘を静かに見つめていた。さながらそこに実態があるかの如く、生前の姿そのままに。
 いつでもどこでも希美を想い、見守っているわ。
 いつでも君を想い、見守っているからね。いつも近くにいるよ。
 愛してるわ/愛してるよ。
 涙がこぼれそうになったが、どうにかこらえた。鼻をすすり、表情をやわらげた。
 父と母が娘に手を振ってよこし、共に投げキッスを送ってよこした。希美はそれを受け止めたといわんばかりに右手の人差し指と中指をそろえて指先で、自らの唇に、わずかに微笑しながら押しあてた。
 これが欲しかったの。
 そうしてそこで、幻の情景はふっつりと消えた。
 「おーい、ののぉ。どうかしたんかあ?」と、わざと間の抜けた声で、しかし真剣な面持ちで彩織は、その場に立ちつくしている親友の肩へ右手を置いた。
 希美の目蓋が閉じられ、また開かれた。その拍子に一粒の涙が頬を伝って流れ落ちていった。
 彩織は喉をひゅっと鳴らして、口をつぐんだ。背後の桜を振り返って、見あげた。二人といない大切な存在を涙させた桜の巨樹を、その哀しい記憶を甦らせたらしい桜の巨樹を、恨めしく眺めたあとで、また希美に向き直った。視線がぶつかり合った。いまは希美も涙を拭い、いつもと同じ笑顔で彩織を見ている。「もう、大丈夫なん?」その問いに希美がこっくりと頷くのを見て、彩織は安心したように口許をほころばせた。安堵の溜め息も思わずこぼれた。よかった……。
 わずか十数秒とはいえ、希美の心ここにあらずの様子に、彩織に劣らず心配していた――そして彩織よりも先に希美の変化に気がついていた美緒と藤葉も、同様に安堵した。
 桜の木の下には死体が埋まっている。しかしここは学校。正門の桜の下に死体があるはずもないだろう。けれど、死者が姿を現すことはあるかもしれない。もしかすると希美ちゃんは――。希美の手を取りながら、そう美緒は思いをめぐらせた。
 他の生徒達が傍らを通り過ぎてゆく。藤葉は何気なく右の手首にはめた腕時計に目をやった。針は四時五分を指している。あと四分で――
 「バスがそろそろ来るよ。行かなきゃ」
 その声に反応して彩織と美緒が振り返りざま体の向きを変え、希美を真ん中に据えて歩き始め、藤葉は三人の数歩前を歩いた。
 正門を出るとき、藤葉は誰かの視線を感じた。自分を見ているのか他の三人なのか、それとも四人全員なのか、はっきりとはわからない。が、確かに誰かが私達を見ている。今日一日、何度となく感じた希美と彩織への興味本位な視線ではない。もっと薄ら寒い、死をも連想させるそれだった。邪悪な意志に満ちている。背筋を冷たいものが走っていった。藤葉は校舎の方を振り返った。視線は感じるがその主は見えない。でも、絶対に何者かがどこかから私達四人の誰か、あるいは全員を窺っている。
 「ふーちゃん?」
 美緒の声に想念は破られた。我に返ると藤葉は「なんでもないよ」と笑いながら、美緒の肩を叩いた。片側二車線の、東名高速沼津ICと市街を結ぶ県道四〇五号線(通称、足高三枚橋線)の左右を見やってから、藤葉は他の三人を引率するように前へ立って正門前の横断歩道を渡った。沼津駅行きのバス停には、もう十数人の生徒が並んでお喋りに興じている。
 今日は坐れそうにないなあ。藤葉は口の中で呟きながら、列の最後尾に並んだ。話題につまり、ややためらいがちにクリスマスの相談を持ちかけた。結局その話題はバスが沼津駅に着いても終わらず、駅ビルの中にあるケンタッキーフライドチキンで一時間ばかり過ごして、ようやく一応の幕となった。□

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