第2437日目 〈『ザ・ライジング』第2章 34/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 駅の改札で美緒と藤葉を見送ると、希美は商店街で夕飯の買い物をしてゆくから、といって彩織と別れた。希美も彩織も、駅前のロータリーからバスで自宅へ帰ることになる。「じゃあね」「バイバイ」とそれぞれの行く先へ足を向けた。一、二歩の後、彩織は立ち止まって振り返り、「ね、のの」と希美の背中に声をかけた。
 踵を返してこちらを見やった希美に、
 「今夜なあ、もしよかったらウチんとこで夕飯一緒にどう? お母さんも喜ぶ思うんやけど」
 希美は目をぱちくりさせた。「久しぶりだね、彩織が誘ってくれるの。でも、急にどうしたの?」
 「一緒にヴィデオ観ながら、って思ったんやけど……。あ、なにか予定でもあるん?」
 「ううん、別にないよ」と希美は頭を振って答えた。「――じゃあ、お誘いを受けようかな」
 二人はちょっとの間、顔を見合わせて、ぷっ、と吹き出した。ずっとこんななんでもない時間を希美と共有してゆけたらいいのに、と彩織は笑いながら思った。あと何年かしたら希美は自分から離れていってしまう。いまのように二人して屈託なく笑うことも、いつかそのうちなくなってしまうのだ。
 それならいまの時間を思い切り謳歌したっていいじゃないか。そう、芸能界に入っていたずらに大切な時間を捨てることはない。本心でない夢より大事なものなんて、いくらでもあるじゃんか、と彩織は胸の内で呟いた。
 それを敏感に察したのか、希美はふと笑うのをやめると彩織の顔をじっと見て、
 「夢とのお別れの日にするつもりだね、彩織?」
と訊いた。その目には、少し淋しげな表情が浮かんでいる。
 彩織はそれに頷いた。
 歌手になる。芸能人になる。子供のときからそんなことは考えていたが、自分がその世界で生き残ってゆけるわけがない、と心のどこかでわかっていた。才能とか素質とかっていうよりも先に、自分はそんな世界でやってゆくだけの度量を持っていないことがわかっているから。きっとそれは憧れであって夢ではなかったのだ、とようやく彩織は思い至った。自分にはまだ見つけられていないが、きっとなりたい姿がある。自分の身の丈にあった仕事がある。まだ見つかっていないけど、そんなのこれから探してゆけばいい。
 夢とのお別れの日。その通りだ。だが、彩織はむしろこんな表現で、希美を交えた今宵の夕食の席を形容したかった。
 「道はつづくよ、先へ先へと。さらに先へと。道を辿ってわたしはゆこう……」
 なあに、それ、と小首を傾げて、希美は彩織を見つめた。
 彩織はその視線を感じて、「『指輪物語』や。トールキンの原作の方」と答えた。納得した様子で頷き、彩織の言葉を小声で繰り返す希美へ続けていった、「国民投票のヴィデオのあとで『ロード・オブ・ザ・リング』のDVDも観る?」と。
 「買ったの!?」いや、買うてもろたんや、と彩織。「うん、観たい! 夜中になっても観たい!」
 「よし、決まりや。じゃあ、六時半頃、お母さんの車でののん家に行くわ。準備しといてな」
 「うん、わかった。六時半だね。待ってる」
 そうして二人は手を振り合って、別れた。希美は商店街へ歩いてゆく。彩織は自分が乗るバスがロータリーに入ってきたのを見て、あわてて駆けだしていった。□

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