第2445日目 〈『ザ・ライジング』第3章 1/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 階段を降りてホームへ着くと、白井正樹はあたりを見まわした。誰も坐っていないベンチを見つけ、腰をおろした。両手をこすり合わせて、息を吹きかける。ほんのわずかだったが息のあたった箇所がぬくんだ。彼女の息で暖めてほしいんだけどな、と独りごちて思わず苦笑した。間もなく審判が下されようとしているのに、おめでたい奴だな、俺って。あと九〇分、まあ、二時間としないうちに生涯最大の審判が下るだろう。四日前の電話を思い出すと、わずかの期待と少しの後悔を抱いてしまう。えい、くそ、と呟き、頭を振った。
 ホームの天井から吊りさげられた電光板に、ついで左腕の時計に視線を投げた。ここ小田原駅に西行きの東海道本線が入ってくるまで、あと五分ほどあった。十二月も終わりに近い今日、気温は十五度を超えていた。あたたかい空気を海から運んできた風が、白井の頬を撫でて山間に流れてゆく。
 眼下に広がる小田原城下町の街並みと、その向こうに広がる相模湾と真鶴半島を眺めながら、白井はコートのポケットから読みかけの文庫を出し、目的の頁をぱらぱらとめくった。スティーヴン・キングの『ガンスリンガー』だった。高校入試の終わった翌日に観た『クリープ・ショー』でキングの名前を初めて知り、その足で向かった本屋にてキングの小説を見つけ何冊か買った(持っていた小遣いだけでは足りず、電車賃も使ってしまったので、帰りは自宅まで約三キロの距離を歩いて帰った)。『ファイアスターター』を読み『キャリー』を読んで『クージョ』を読んだ。どれもそれなりに面白かったが、映画で味わったキングの持ち味とは再会できなかった。その年の晩秋に、文春文庫から『シャイニング』が復刊された。評判の高さは承知していたし、自分の好きな怪談でもあったので、もらったばかりの小遣いを叩いて上下巻を本屋のレジに出した。そうして読んだ……白井はキングの虜になった。かくしてここに一人の年若いキング・フリークが誕生し、日本語で読める作品はアルバイトで資金を稼いで買いあさり、古本屋を回って初期三作のハードカバーを丹念に探し、雑誌に掲載されて埋もれたままの短編を求めてさまよい歩いた。そんなキング熱が頂点に近づいていたある日、本邦初のキング研究書『COMPLETE STEPHEN KING』が発売された。そこには、白井を心の底から驚かせる作品のアウトラインが語られていた。限定出版されてまだ日本語になっていなかった(なるとは到底考えられなかった)〈暗黒の塔〉シリーズだ。そのときの興奮と憧憬はいま以て言葉にすることができない。ただ、このシリーズをいつの日か、心ゆくまで読み耽りたいな、と思うばかりで。キングみたいなすごい作家になろうと夢見た時期もあったが、銀行を辞めてからはそんな小さな夢さえどこかに置いてきてしまった。深町希美との出逢いは、それに代わる夢を白井に与えてくれた。
 約束はできない、ごめんなさい。そう小さく呟く少女の声が、耳の奥で聞こえる。その前には、無限と感じた沈黙があった。軽々しく決断すべきではない。そうした迷いの末の、彼女の一時的な結論――「約束はできない、ごめんなさい」――だったのだろう。そう肯定的に考えようとした。しかし、 電話を切って布団へ潜ると途端に不安が頭をもたげた。不安は際限なく大きくなり、明け方まで白井を眠らせなかった。だが、それも今日まで。なんといっても今日は審判の日。今夜からは、これまでとは違う意味で眠れぬ夜を過ごすことになるのかもしれない。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。