第2457日目 〈『ザ・ライジング』第3章 13/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美はアザラシに会った。ガラス壁一枚隔てた向こう側で、アザラシは黒い眼をぐりぐりとめぐらせ、こちらを見物している連衆を眺めていた。プレートの説明には、北極海のどこだかの出身、性別はオスとある。
 その彼の目と希美の目がぶつかった。アザラシがじっとこちらを見ている。希美は額をガラスに近づけ、アザラシを見返した。タマちゃんもあんな感じなのかな。ねえ、君には私達って、いったいどう見えてるの? 
 君はだあれ? 彼の目がそんな風に語っているように、希美には感じられてならなかった。
 ここはいったいどこなの? 君みたいなのをたくさん見るけど、君達はいったい何者なんだい? 
無邪気な笑顔を浮かべていた希美の表情に影が射した。思わず真顔になった。背を伸ばし、そっと掌をガラスにかざして、顔をガラスに寄せた。水槽の天井から落とされた光が、ローズ・ピンクの口紅を塗った唇に艶めいた彩りを添えた。
 君だって好きでここにいるんじゃないもんね。勝手だよね、私達――人間って。
 アザラシがふいに視線を右に左に散らして、希美の両脇にいる見物人達に歓声をあげさせた。希美にはそれが、そんなの気にしなくたっていいよ、といっているように思えた。
 君にだって家族はいただろうに……心ない人達の手で引き裂かれちゃったんだね。なんだか私みたい。ねえ、私達ってもしかすると、同類なのかな。
 そんな希美の想いを感じてか、アザラシは再び彼女に視線を据えた。やわらかい毛並みに埋もれてわからないが、口許がもし見えたなら淋しげな笑みを浮かべているような気がした。アザラシはひれをばたばたさせた。
 家族はいたよ、確かに。故郷の海や親兄弟を想って、誰も僕を見ていない夜更けにこっそり涙を流すこともある。でもね、淋しがるのはいいけど、かといって僕を故郷に帰してくれるわけじゃない。もう二度と会えないんだ、そう思うと辛いけど、仕方ないよ。僕はポジティブ(これは僕の餌係のあずさお姉さんの口癖なんだ。たまに冗談半分に水をひっかけてやると、すぐにいじけて落ちこんじゃうんだけどね)に考えることにした。だって僕はここに来て新しい友だちに出会った。新しい家族ができたんだ。僕は一人じゃない。けど、それは君だって一緒だろう?
 ひゅっ、と音を立てて希美は息を吸いこんだ。傍らに立っている白井を、それと知られぬよう見あげる。まさかこのアザラシが本当にそんなことを考え、いっているとは思っていない。きっとあれは自分の内なる声。だってアザラシが私を知っているはずがない。今日まで面識はなかったし、それにアザラシだよ? けれど……一人じゃない。新しい家族。
 アザラシは鼻を振るわせ、そのままでんぐり返りした、希美を見つめたままで。やれやれ、もっとシンプルに考えようよ。君はいま、新しい家族といる。古い家族とはもう会えないけれど、いつも見守ってくれている。違うかい?
 希美は小さく頭を振った。ううん、そんなことない。だけど、なんでアザラシの君がそんなことを知ってるの?
 刹那、アザラシがにんまりと笑ったように見えた。それは内緒さ。僕等のいるこの世界は不思議なことで満ちているんだよ。ところで、君の名は?
 希美。のぞみ、っていうの。
 ん、ののみ?
 違うわよ、の・ぞ・み!
 ああ、ごめん、ごめん。ののみって聞こえたものだからね。
 ううん、いいよ、別に。もう馴れてるし。私、子供のころから滑舌が悪くてね、自分で自分の名前がちゃんといえなくて、幼稚園や小学校の時はよくいじめられてたの。でもね、そのたんびにお隣の五歳年上の真里ちゃんが助けてくれて、慰めてくれたの。あだ名の“のの”っていうのは真里ちゃんがつけてくれたんだよ。
 ふーん、そうか、いい話だね。僕にはよくわからない言葉もあったけど。
 ねえ、アザラシさん、君の名前はなんていうの?
 007(ゼロゼロセブン)。
 は? 007? 希美は口許を手で隠し、こみあげてくる笑いを必死になってこらえた。 ここに来たときの箱にそう書いてあったんだ。識別番号007、ってね。響きがなんだか気に入っちゃってね、名前にしたんだ。どう、かっこいいだろ?
 うん、そうだね。でも、ただの007じゃつまらないよ。いっそのこと、ジェイムス・ボンドってどうかしら?
 ボンド。ジェイムス・ボンド。うん、ダンディな名前だね、気に入ったよ。すてきな名前をありがとう、ののみちゃん。
 だーかーらー、と希美が抗議の声をあげる前にアザラシは――いや、007ことジェイムス・ボンドは水槽の向こうへ泳いでいった。瞬く間に姿は見えなくなった。
 去り際に「幸せにね、新しい家族と!」といっていたような気がする。
 希美は溜め息をつきながらほほえんだ。ありがとう、ジェイムス・ボンド君。
 肩に白井の手が置かれたことで、希美は現実に引き戻された。新しい家族。希美はてへてへと笑みをこぼしながら、彼の腕に額と頬をすりつけた。□

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