第2458日目 〈『ザ・ライジング』第3章 14/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 手持ちぶさたに希美の横で見入る振りをしながら、白井は昨夜のことをつらつらと思い出していた。
 昨夜はほとんど眠れなかった。時計の針が、何時間も前に日付の変わったことを教えていた。小田原の古本屋をいつものように漁っていて偶然見つけた、風間暁雄が別名義で書いたロマンス小説を読み耽っている最中も、幾度となく眠気は襲ってきた。そのたびに電気を消してもそもそ布団へ潜りこむのだが、時間が経つにつれて目はどんどん冴えていった。頭の中を幾つもの光景が支配する。希美が駅に来るところ。プロポーズの返事が自分の期待するものであるところ。そして……エトセトラ、エトセトラ。熟睡どころではなくなった。
 暴走族の小さな集団が、二〇メートルばかり離れた街道を走ってゆく音が聞こえる。静寂の統べる部屋。時計の針が時間を刻む音だけが、やけに大きく響いて耳をついた。寝返りを打ってみた。もう少しでベッドから落ちそうになった。だめだ、と白井はなかば観念したように溜め息をついた。ひょっとして今日は、一睡もできないかなあ……。約一時間を布団の中で悶々と過ごした彼は、寝ることを諦めてコーヒーを作り、背の低い本棚に目をさまよわせた。暇つぶしにあれこれ引っ張り出しては頁を開き、閉じてはまた本棚に戻す作業が三〇分ばかり続いた。
 白井はマグカップに残った最後の一口を飲んだとき、ふと、そういえば希美ちゃんのコーヒー初体験はこの部屋でだったな、と思い出した。あのとき、僕は希美ちゃんを抱きしめ、そのまま彼女を求めようとした。十八の誕生日まで待って、と半泣きで訴える目に白井も怖じ気づき、その日はそのまま駅に送って終わった。十八の誕生日まで我慢できるのだろうか、と彼は自分に問いかけたが返ってくる答えはいつも同じ。我慢するしかないさ。彼女に嫌われたくないもんな。今日の終わりに希美ちゃんは結論を下す。それが吉なのか凶なのかはわからない。だが肝心なのは急かさないことだ。彼女がいうのを待ち続けよう。でも、もし彼女に振られでもしたら……僕はこれからどうなるんだろう。
 いや、まあ、それはさておいても――
 暇だった。
 白井は両手で口を隠して欠伸した。幸い、隣に立ってガラス壁の向こうを見つめている希美は、それに気がついていなかった。互いに海のある街で生まれ育ったといっても、海へ寄せる想いはまったく異なっている自分達を見比べて、白井は心の中で苦笑した。彼女にとって海は、いってみれば生活必需品。それなくして、生きてゆくことは困難を極めるのだろう。でも僕は……、と白井は思った。あんまり関わりなく育ってきたからな。子供のころに海で泳いだ覚えはないし、海釣りに行ったことがあるわけでもない。正直なところ、目の前にしているホッキョクグマを見ていても、さしたる感情の高揚があるわけではなかった。プレートの説明文と写真を見て、水槽の中に同じ魚を発見しても、皿の上に載った魚料理の場面しか思い浮かばず、姿と名前が一致したことに満足する程度だった。それに正直なところをいわせてもらえば、と白井は考えた。水槽の中を泳ぐ魚達、あるいはアザラシやシロクマを見ていても、その前にいられるのはせいぜい五分が限界だ。いや、でもそれが普通なのかな、と彼は疑問を抱いた。彼女の方が珍しいタイプなのかも。
 ようやく希美が顔を白井に向けた。彼等は並んで歩き始める。
 パノラマ式の巨大水槽があるZONE3に至る、人気のない通路の片隅で、カップルがぴったりと体をつけて唇を重ねていた。だいぶ光量を落とされた照明が、抱き合うカップルの輪郭を映し出す。耳をすますまでもなく、女の口から低い喘ぎ声がもれている。希美が体を強張らせた。興味津々の様子ながらその一方で、いつの日か自分が経験する破瓜の痛みを連想して、恐れに小刻みに体を震わせているのがわかった。
 白井は思わず彼女をかき抱こうとした。しかし、却って希美を混乱に陥れるかもしれない、と考えて手を引っこめた。別に善人ぶったわけではなかった。正直なところをいえば、彼も怖かったのだ。いまの関係が崩れることよりも、これまでこらえてきた欲情がここで解き放たれることを。そしてなによりも、初めて希美が自分の部屋へ来たとき流した涙を、いま再び目にするやもしれぬことに耐えられなかった。……肝心なのは彼女を急かさないことだ、我慢するしかないのさ。白井は小さく頷いた。いつか、彼女と好きなだけ寝ていられる日々が来る。それまでは、我慢、我慢。
 なにげなく希美に目をやると、正面から視線が合った。彼女は唇を横に引き結んで、トートバッグの縁を指でいじくっていた。乱れがちな呼吸音が聞こえる。あたりは静かだった。互いの心臓の鼓動さえ聞こえるのではないか、と疑われるほどだ。件のカップルはいつのまにか移動したようで、そちらを見ても姿は捉えられず、睦みあう声もいまはやんでいる。白井は言葉を絞り出そうとするものの、舌が口腔に貼りついて動かず、かすれた、声ともいえぬ声がもれるばかりだった。それでもなにをいわんとしたか察したように、希美がこくんと頷いた。白井は背伸びして耳許へ唇を寄せた少女に、激しい感情のうねりを覚えた。これまでの希美への感情が愛情の域で留まっていたのに対し、いまはそれが変質して血よりも濃い絆を確かに感じ取っているように思えた。彼女の囁きに彼は短い言葉を返し、歩調を同じうして歩き始めた。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。