第2459日目 〈『ザ・ライジング』第3章 15/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 アクアチューブと呼ばれるガラスでおおわれたパイプ型エスカレーターが、ZONE3とZONE4を隔てる巨大水槽を貫いていた。回遊する魚の群れに、人々は見惚れ、声をあげた。魚達がガラス壁の向こうで泳ぎ回り、ワルツを踊っている。
 分厚い水のカーテン越しに、連れだって水槽の中を見る人々の姿があった。希美はびくりと体を震わせた。彼等の姿がまるで亡霊のように思えたからだ。ゆらめき、ひずみ、ふとした拍子にいなくなる。この世に別れを告げたあとまでも未練を残し、煉獄に魂をさまよわせる。どこへ行くあてもないのに、いたずらに。
 希美はその中の一人がこちらを見ているのに気づいた。漆黒のローブを頭からかぶって足許まで垂らしている。裾は床に広がっていたが、ここから見る限り、そこには少しの汚れもないようだった。連れの姿はない。そもそもの最初から一人でいるようだ。目立つよねえ、逆に、と思った瞬間、鋭い視線に射られた。両足から急に力が抜けてゆくようだった。後ろに立つ白井が笑って背中を支えてくれた。大丈夫、といって希美は男(に違いない、というふしぎな確信があった)の方へ目をやった。いまの視線が男の向けたものであることは直感でわかった。それは底知れぬ恐ろしさを湛えた、如何なる暴力にも眉根一つ動かさぬような冷酷極まりない視線だった。顔は隠れてまったく見えないが、目と思しきあたりに地獄の業火を思わせるような、紅蓮の炎が燃えさかっている。するうち、男はまっすぐに左腕を伸ばして人差し指で希美を指さした。希美の顔が強張った。色を失ってゆくのさえわかる気がする。全身に鳥肌が立った。悪寒に体が震えている。希美は恐怖のあまり、目を背けた。よほど白井にすがりつこうと考えた。が、視線を少しでもずらせばあの男の姿が目に入ってくる。そんな気がすると怖くてたまらず、それもできなかった。しかし、人間は恐怖に出会うと、いったん目を背けてもまたすぐそれを見たくてたまらない救いようのない好奇心を、本能の中に組みこんでいる(でなければ、お化け屋敷が遊園地にある必要はない。肝試しや百物語にしても、連綿とそれが続いてきた理由はなくなってしまう)。希美もまた例外ではなかった。おそるおそるといった様子で、さっき男がいた方に視線を向けた。だが、そこに男はいなかった。新しい恐怖に囚われた。どこの誰かは知らないが、目をつけられたのかもしれない。理解しがたい理由で、簡単に命が奪われてゆく時代だ。そう、なにがあってもおかしくない。希美はエスカレーターの下を見た。白井の後ろには誰もいなかった。どこを見渡してみても、あの男の姿は見えない。安全ではないが、取り敢えず安心はした。強張りは少しほどけたが、不安げな表情は直らない。それを勘違いした白井が、同じ段に立って希美をそっと抱き寄せた。希美は固く目をつむって、アクアチューブが終わるまで白井の腕の中にいた。□

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