第2460日目 〈『ザ・ライジング』第3章 16/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 池本玲子はずっと二人からつかず離れずの距離を取っていた。時たま見失いそうになったが、もともと閑散とした館内だったから、すぐに見つけだすことができた。おまけに館内はほの暗かった。はっきりと顔が見られない程度に適度な距離を置いて、彼等の会話に聞き耳を立てるのは容易だった。
 白井と少女がアクアチューブにさしかかった。池本も何気ない足取りでその後をつけた。あと数メートルでそこに至ろうとしたときだった。誰かに肩を摑まれた。瞬間、全身が固まった。足から根が生えたように、その場で棒立ちになる。呼吸が荒くなり、肩に置かれた手からいわれようのない恐怖が、体の中に雪崩れこんでくるようだった。少し前屈みになった背中に痛みが走る。池本は手の主に振り返った。見てはならない者がいるように感じた。でも視線は否応なく、そちらへ引き寄せられてゆく。
 漆黒のローブを頭から纏った男が一人、そこにいた。池本をじっと見つめている。表情はローブの陰に隠れて見えなかったものの、目と思しきあたりに白濁色の丸が二つ見えた。暗闇に浮かんでいるようにさえ見られた。その視線は氷のように冷たい。見つめる対象を永遠に凍らせてしまうだろう視線。男の眼球はじきに銀色に変わり、乳白色となって、やがて透明に移ろった。池本は体を震わせることもできず、色のない瞳に魂を吸いこまれてゆきそうな気がした。男が手を離した。途端に足から力が抜け、その場にくずおれた。男がかがんで彼女の腰に手を回した。内蔵まで凍えてしまいそうな冷たさだった。
 色のない瞳から視線をはずせなかった池本が我に返ったのは、男の皺だらけな掌が彼女の首筋を這ったときだった。耳許に男の声が響いた。腐臭がした。鼻を曲げてしまいたくなる匂いだった。その声は口いっぱいに泥をほおばったようにくぐもっている。
 「我々は利害の一致する者。池本玲子よ、あの男の運命の糸、そなたに委ねよう」
 そういうと男は池本に背を向けて、飄然とその場を立ち去った。すぐに館内の暗闇に紛れてしまい、どこへ行ったのか、いったい何者だったのか、果たしていまの邂逅は現実だったのか、そして、なぜ男が自分の名前を知り白井の存在を知っていたのか、池本は訝しんだ。あの男の運命の糸、そなたに委ねよう、という男の言葉が頭の中で堂々巡りをし始めた。が、その答えを見出すことは永遠になかった。もうそれ以来池本がこの男と出会うことも、永遠になかったのである。
 どれぐらいの時間、そこに突っ立っていたかは知らない。十秒のようにも感じられたし、それ以上の時間が流れている気もした。池本玲子は足をよろめかせながら、アクアチューブの手摺りにもたれ、上の方に目を走らせた。白井と少女の姿が重なっていた。彼女はそれをうつろな眼で見つめながら、沼津にいるはずの姪のことを考えた。あの男……理恵ちゃんが差し向けたのかな、あのガキを葬るために。そんなことはあり得ないことだと承知しながらも、そうだとしたらなかなか頼りになるのに、といましがた恐怖に震えていたのはすっかり棚にあげて、池本はにたりと笑みながらそう考えた。
 明日になれば、すべてが終わり、すべてが始まる。粛正の日だ。
 二人が視界から消えたのを見ると、池本は大股で一段置きにエスカレーターをのぼっていった。□

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