第2461日目 〈『ザ・ライジング』第3章 17/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 夜空には星が瞬いていた。高山の頂で見るほどではないが、そこを星がきらめき彩っている。アクアミュージアムを後にすると、彼等はマリーナの岸壁でぼんやりと時間を過ごし、あたりをぶらつき、遊園地で遊んだ。そうして宵闇が太陽を押しのけてしばしあって立ち去り、それに変わって神秘的で不可思議な夜が足早に訪れ、あまねく世界をその腕に包みこんだ。
 白井はかねてより見当をつけていた場所に希美を誘った。顔には出さないけれど、希美も彼が連れてゆく場所でなにが始まるのか、おおよそ察していた。
 海を見おろす小高い公園に着いた。白井は周囲を見渡してみて、しまった、とばかりに溜め息をついた。あたりのベンチはカップルで埋まっていた。どこからこれだけ湧いて出たのか、と小首を傾げてしまうような数だった。
 こんなにカップルがこの島にいたのか?
そう彼は自問した。答える声があった。あたかも横浜市の観光ガイドのような答えだった。――そりゃそうさ、だってここは“恋する遊び島”だもん!
 ああ、そうですか、と白井はやや呆れたように呟いた。聞こえたかと思って隣に立つ希美を見てみたが、どうやら心配は無用だった。彼女はもはやうつむくことさえせず(いや、ただ呆気にとられただけなのかもしれない)、自分のまわりでどこまで真実かしれたものではない愛の言葉を囁きあい、相手の体を馴れた様子でまさぐり、また、緊張からかぎこちない仕草で相手の体に触れる者のいる周囲の叢やベンチを、好奇心と羞恥の入り混ざった目で控えめに観察していた。
 白井は彼女の手を取って、空いているベンチを見つけた。希美があたりを見回している間に、視線が吸い寄せられるようにして見つけた、おそらくこの時間唯一の空いたベンチだった。まるでスティーヴン・キングの小説に出てくる、雪に閉ざされた深山に孤立して建つ幽霊ホテルのようにも、ニューヨークの街角で人知れず咲いていた一輪のバラのようにも、白井には感じられた。
 そこは、何故これまで誰もここに坐っていなかったのか、訝しむよりないような場所だった。そこからの横浜の夜景は、けっして悪くなかった。東京湾を中心に置いて、左手には本牧や新山下、奥まって桜木町のみなとみらい地区が白と濃い青のライトに包まれて広がり、右手には新山下から海上を対岸の木更津まで海を横断する東京湾アクアラインが視界を横断し、その向こう側に羽田空港や大井埠頭のオレンジ色の明かりが見え隠れした。アクアラインを走る車のテールランプが筋を引いて、木更津と横浜の間を行ったり来たりしている。川崎からしばらくはトンネルが海中にあるため、よくよく目を凝らすと、いきなり橋が海の中から生えているように見えるが、もちろん、そうではない。海ほたるこそ見えなかったが、あの橋の上から海を眺めたらどう見えるのかしら、と希美がいったが、白井はそれを説明することができなかった(自分の見たことのない光景を見てきたように説明するのは、白井にはできるはずのない芸当だった。想像力が欠如しているわけではなかったが、嘘をつくことに馴れていない男だったのだ。小説家のように天下無敵の嘘つきと無縁の男が、この白井正樹という男だったのである)。
 希美が上を見あげた途端、あ、と小さな声で呟くのが聞こえた。つられて白井もそちらを見た。空の遙か上の方を、赤い光が二つ、北西へ流れてゆく。それが飛行機であるのは一目瞭然だったが、果たして国内線なのか国際線なのかまではわからなかった。彼女が唇を噛んだまま、そちらをじっと見つめている。東京湾沿岸の光景も、いまとなっては無用の書き割りに過ぎない。白井は後悔したが、してどうなるというわけでもなかった。希美の頬を涙が一筋、すーっ、とゆっくり伝ってゆく。白井は衝動的に希美を抱きしめ、その頬に口づけた。涙の味が喉の奥まで感じられる。しょっぱいというよりも水の味が最初にした。希美が一瞬、体を震わせるのがわかった。しかし、彼女を想いの束縛から解放するつもりはなかった。
 このままずっと抱きしめていたい、と思ったとき、彼はコートの内ポケットへ大事にしまっていた贈り物に気がついた。この日のために夜勤のアルバイトまでして買った、白井正樹から深町希美への贈り物。今日のクライマックスを飾るのにふさわしい場所を得て、それは遂に真の役割を果たすために姿を現そうとしている。
 「希美ちゃん」と白井はいった。声もなく彼女は目の前の恋人を見あげた。瞳は濡れて光彩をゆらめかせている。十七歳にしては落ち着いた色気を漂わせ、心をこそばゆくさせる表情だった。が、その表情の裏に二ヶ月前の悲劇がいまも息づいていると思うと、白井はとまどいとやるせなさを感じずにはいられなかった。
 希美の半開きになって八重歯を覗かせる唇がふいに閉じられた。少女の目蓋が閉じられている。そっと、口づけた。ややあって名残惜しげに唇が離れた。再び、白井は希美を抱き寄せた。その耳許で、囁いてみる――
 「愛してる」と。
 希美が小さく、しかしはっきりと頷いた。□

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