第2462日目1/2 〈『ザ・ライジング』第3章 18/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美を抱きながら、コートの内ポケットに入れた贈り物に指先が触れたとき、白井はふと彼女と出逢ったときのことを思い出した。
 六月第二週に始まった教育実習の初日から、希美は目立って気になる少女だった。高村千佳と教室に入った途端、生徒達のかまびすしいお喋りの声がやんだ。三十四人六十八の瞳が、一斉にこちらへ向けられた。来てはいけないところへ迷いこんでしまったような気がした。彼女達がまんじりともせずに、白井を見つめている。その静けさはあまりに不気味だった。やがてそれは一人の生徒の、はああ……、という納得したような溜め息によって破られ、思わず耳をふさぎたくなるほどの悲鳴じみた大歓声と拍手に取って代わられた。顔が真っ赤になるよりも先に、体中がこそばゆくなった。高村に促されて教壇に上がって自己紹介をした。ああ、ヌードモデルを引き受けた男性は鋭い視線で自分を見る、居並ぶ女性陣を前にすると、そうか、こんな気分に陥るんだな、と合点がいった。
 どうにかして自己紹介をすませたとき、白井は一人の生徒に引きつけられた。臙脂と黒の格子模様をしたベストとスカート、オフホワイトの半袖ブラウスに臙脂一色のリボンという装いは同じながら、他の誰よりもあどけなさとしとやかさが同居した容に、半開きになっている唇からこぼれるように見える八重歯が、妙に印象に残る、そして、嫌みにならない程度に醸し出された気品が漂っている少女だった。彼女は机の上で腕を交差させて上体を少し前屈みにし、クラスメイトと同じ好奇あふれる眼差しで白井を見つめている。前の席に坐ったお団子頭が記憶に残る生徒が少女に振り向いて、なにやらこそこそ囁いている。小さく頷いたり、笑みをこぼすたびに、八重歯の少女のツインテールにした髪が揺れた。思わず白井は心臓を鷲摑みにされたような気分を味わった。ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの歌の一節が脳裏に字幕スーパー入りで浮かびあがり、いまこそ彼はその歌詞の意味を本当に理解したように思えた。わかるかい、ハンマーでやられた感じだよ/重い鉛で一発だよ。
 なにはともあれ、それが白井正樹と深町希美の出逢いだった。
白井は教育実習が終わるころには、朝夕のホームルームと週三回の日本史の授業を通じて、希美にすっかり心を奪われ、恋心を抱くようになっていた。やがてこの学校にさよならしなくてはならない日が近づいてくると、どうにか自分の気持ちを希美に伝えようと考えたが、そのたびに年齢差と、それ以上にかつて自分が被った恋の傷にためらって、なにもいい出せぬまま、彼は高村と三組の生徒達に見送られて、聖テンプル大学付属沼津女子学園を後にした。もう、これきり彼女と会うことはないのかな、と傷心の心を抱えたまま。
 初夏はすぐに夏の盛りを迎え、寝苦しい日々がやってきた。塾で教えるだけでは生活できないので、交通誘導や倉庫で仕分けや入出荷の作業に従事し、大学やアルバイトに行かない日は小田原のアパートで本を読んで過ごし、希美の顔を思い出してぼんやりとしていた。卒業論文も参考文献に目を通そうとしても、いつだって読みかけの小説と希美の笑顔が作業を邪魔だてした。一日一日がのどかに過ぎていった。そのときには、八月が終わろうとしていたある日の宵に人生を一変させる出来事が訪れるのを、白井はまだ知る由もなかったのである。
 そうか、とコートの内ポケットから、ビロード地の小さな紺色の箱を希美の掌に置きながら、彼は口の中で呟いた。出会ってもう半年、付き合い始めて四ヶ月になるんだな、と。あの頃はこんな日が未来に待っているなんて思わなかった。でも、僕はこうして自分の居場所と、ずっと求め続けてきた女性を見つけられた。煩悩の日々は今日で終わり、明日からは新しい日々が始まる。それはきっと素敵なことに違いない。
 「希美ちゃん……僕と、結婚してほしい」と白井はその小箱を開け、中を彼女に見せながら、いった。□

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