第2451日目 〈『ザ・ライジング』第3章 7/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 「付き合い始めてもう四ヶ月になるのよね」と希美が呟いた。窓に映る自分達と車内の光景を、トンネルの壁に付けられていまは後ろへ過ぎてゆく電灯の明かりを見つめながら。「四ヶ月も経つのに白井さんの過去ってほとんど知らない」
 白井は驚いた面持ちで希美を見た。「過去?」
 「子供のころはどんなだったのか、どんな夢を持っていたのか、どんな友だちがいたのか、――どんな女性を好きになって、付き合ってたのか、とか、うん、まあ、そんなこと」
 「話したこと、なかったっけ? ――そうか、話さなかったかもしれないな」希美が頷くのを見て、白井はいった。「もっとも、あんまり話すようなこともないんだけどね」
 「それでも聞きたい」
 駄々をこねるような口調でほほえんだ希美を見て、白井は敗北した。ダメ押しは、「だめ?」といわんばかりに唇を突き出し、小首を傾げながら上目遣いで自分を見つめる仕草だった。彼は自分の鼻の下がだらんと伸び、口許がしまりなくほころぶのを感じた。お手あげだ、降参。ノックアウト。その瞬間、希美は勝利を確信したように、それまでのやや不安げな表情から満足げなそれに代わった。
 「ふうむ」白井は呻きながら顎を掌で撫でさすった。ちら、と希美を見やる。視線がぶつかり、慌てて二人してそらした。白井正樹は考えた、よし、では――
 「じゃあ、話そうか。……って、なにが知りたいの? 希美ちゃんがいまいちばん聞きたがっていることを、まずはお話ししましょう」
 訴えるような眼差しで希美を見た。いちばん知りたいことなんて、そんなの決まってるじゃない。そういいたげに唇をとがらせた。女が男の過去について不安を抱くことなんて、煎じ詰めればただ一つ――「そりゃあもちろん……女の人のこと」
 白井は頷くと、窓の外に目をやった。トンネルはまだ続いている。長いもんな、ここ。 女の人のこと、か。となれば、〈あの人〉のことしかないな、と彼は思った。知れば希美ちゃんは離れていってしまうかもしれない。それは最悪の事態という他ない。いずれにせよ、彼女を苦しませ悲しませることになるかもしれない。でも、本気で将来を共にするのならば、希美ちゃんは〈あの人〉のことを知っておいた方がいい。どうやったって隠しおおせはしないから。黙っていたって遅かれ早かれ知るだろうから。嘘が下手だからね、僕は。思ったことを口に出さずにはいられない。だから家族にも疎まれる。そういえば、と彼は思った。最後に家族と会ったのは、何年前のことだろう、と。まあ、そんなこと、どうでもいいや。もうあの人達と会うことはないだろうから……淋しいけれど。
 「わかったよ」と白井は希美を見つめ、頷いた。「じゃあ、話そうか」

 電車は藤沢駅を出た。少し経つと視界をふさぐ建物は消え果てた。周辺を建売住宅やアパートが埋めてところどころに畑や祠がある風景を、じっと希美は白井の告解を反芻しながら眺めていた。
 いままで好きになったり惚れたりした女性は、そりゃあね、いたよ。そう白井は話を切り出した。でも、希美ちゃんにどうしても知っておいてほしいのは、ただ一人だけだね。その女性は夫のいる身だった。もう四年近く前のことだよ。僕は銀行に勤めていて――これは話したことがあったよね?(希美は頷いた)――あの女性は上得意の後妻だった。年齢も二〇歳以上離れていたんじゃなかったかな。
 で、その上得意の担当が僕だったんだ。週に何度か、そのお客と彼女に会う機会があった。懇意になってゆくに従って、彼女個人とも親しく口を利くようになってね、金融のことだけじゃなくてプライベートな相談まで受けるようになったんだ。もっとも、僕等は年齢が近かったからね、彼女にしてみれば話しやすかったのかもしれない。それに相談っていうよりは彼女にしてみれば、退屈な毎日をどうにかやり過ごしてゆくための鬱憤晴らしだったんだけど。ある夜、彼女に呼び出されて中華街近くのバーに行った。そこもいまはなくなって、いつのまにか駐車場になってた。そのバーでまた上得意のグチが始まった。こっちは、ああ、またか、と思って半分聞き流してたんだけど、まあ、要するに、夜の生活に不満だったらしいのだな、彼女は。(希美はこの件で顔を――耳たぶまで真っ赤にしてうつむいた。このところずっと夜になると想像してしまう、やがてするであろう白井との愛の営みが脳裏にくっきりと浮かんできたからだ)で、酒が進むにつれ、彼女は僕を誘ってきた。こっちも初めて会ったときから魅せられていたから――結構、スタイルもよかったしね。(希美はここでちょっとむっとした)そして、僕等はホテルに雪崩れこんだ。
 でも、一夜限りの関係にはならなかった。一年半ばかり続いたかな。最初のうちは後ろめたさややましさがあったけれど、あの女性は僕に見返りをくれた。自分や亭主の知り合いを紹介してくれ、契約するように計らってくれたんだな。でも、そのうちに僕は、それとは無関係に彼女自身へ溺れ始めた。いけしゃあしゃあというようで申し訳ないけれど、いまの希美ちゃんに対するのとは違った意味で、僕は彼女を愛していたのかもしれない。けれども、当然のことながら、終わりは訪れた。僕等のことが彼女の亭主にバレ、銀行に知られたんだ。その上得意は僕の目の前で彼女を折檻し、僕も傷が残ったり体が壊れたりしない程度に痛めつけられた。客はいったね、女を取るか人生の再出発を取るか、と。あの女性を選べばお前の将来はないぞ、っていう警告だったんだ。
 天秤にかけるまでもなく、僕は人生をやり直す方を選んだ。ひどいよね。でも、あのときはそうするよりなかったから……。それきり、彼女とは会っていない。客は銀行に持っていた口座を、後日に解約したそうだよ。僕はもうそのときは銀行を辞めてたから、詳しくは知らないけれど、ずいぶんな損害を被ったんじゃないのかな。とにかく、僕は銀行を辞め、横浜の聖テンプル大学に入り直した。そうして教育実習で沼津へ行き、希美ちゃんと出逢った、というわけだね。……あれ、どうしたの、希美ちゃん、泣いてるの?
 ──希美の左右の頬に涙が一筋ずつ、跡を残して流れ落ちていった。陽光がわずかながらも和らいだ。右手の人差し指でそれを拭う。唇を噛み、すぐに離して半開きになり、そこから細く溜め息がもれた。□

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