第2453日目 〈『ザ・ライジング』第3章 9/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 二人は大船駅で京浜東北線に乗り換えた。先を歩く白井が構う風もなく行き先表示にほとんど目もくれず足早に歩いてゆく。土地に馴れない希美は彼についてゆくのだけで精一杯だった。もちろん、白井が彼女のペースに構わず歩いていた、というのではない。ただ、一歩二歩程度先を歩いて、ときどき人が割って入ってくると、見失いそうになって心細くなるのは事実だった。そもそも歩幅が違う。ときどき立ち止まって後ろを振り向いて、ごめんね、という表情で待ってくれ、手を伸ばしてくれたりしなければ、とうにはぐれていたかもしれない。駅の構造は迷子になどなりようはずもないくらいシンプルだった。二ヶ月前に両親を成田で見送った帰り、寄り道してみた渋谷や原宿でたっぷり味わった人混みもなかった。なのに希美は、いわれがたい吐き気と眩暈を感じた。坐りこむほどではない。この程度ならしばらくすれば、そう、ここを離れれば治まるだろう。希美は新杉田駅に着くまでの間、学校での出来事を話して聞かせ、白井に懐かしがらせたが、いつの間にかさっきの気分の悪さは消えていた。
 新杉田駅から八景島まではシーサイドラインを使う。駅を出てしばらく列車はオフィスビルや企業の倉庫、社宅やショッピングセンターが建つ商業地域を蛇行して走り、時折海へ接近しながら分譲マンションや学校のある一帯を抜けた。八景島に近づくにつれて整備された公園が広がり、やがて海を眼下に二人を目的地へ運んでゆく。
 希美は窓の外の光景をじっと見据えていた。左手に東京湾が広がっている。たった一日、まだ数時間しか経っていないのに、沼津の海と波のさざめき、海に沿って広がる砂浜と松林が無性に懐かしくてたまらなくなってきた。
 私は異邦人だ、と希美は痛感した。ここにいるべき人間じゃない。でも、こっちで暮らすことになったら……白井さんと……きっとホームシックにかかってしまうに違いない。すっかり引きこもりになり、外出はお買い物程度、いつしか魂の抜け殻になってしまうだろう。高い塔に幽閉されたお姫様のように時間の流れを忘れ、毎日を無気力に過ごすことだろう。国語の宿題だった読書リポートで読んだ『嵐が丘』の作者のように、重度のホームシックにかかることは間違いない。好きな人と暮らしていても、土地になじめなかったら悲劇だよね、と希美は独りごちた。――人は生まれた場所から離れて生きるべきではない。どうせ暮らすなら故郷にいる方がいい。その方が(少なくとも自分は)幸せだ、と希美は思った。
 かといってせっかくのデートを自ら台無しにするつもりはなかった。少なくとも今年の、最後から二番目のイベントにはふさわしい舞台である。ましてや将来を決める日のデートの舞台には。海を眺めていれば、最前の気分の悪さも癒されよう。そう、海は命の源だから。命は海から生まれ、海に帰ってゆく。
 駿河湾よりもずっと澱んでいて、なんの感興も湧き起こさない東京湾ではあったが、まあ、これも海であることに変わりはない。この海が、私が赤ん坊のころから見てきた海のご近所さんならば、ん~、不満はいうまい。
 返事は今日が終わるまで待ってほしいの。さっき沼津駅で白井に向けた一言が、脳裏に甦ってくる。今日が終わるまで。だが、返事なんてもう決まっている。私が欲しいのはいいだすきっかけとほんの少しの勇気だけ。
シーサイドラインと海面から伸びる橋脚の影が、水面に落ちて上下する波へゆらめいていた。それを車窓越しに眺める希美の顔に、満面の笑みが浮かんだ。白井の口許がしまりなくゆるみ、鼻の下がすっかり伸びきっているのを希美は知らなかった(たぶん、白井自身も)。□

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