第2463日目 〈『ザ・ライジング』第3章 20/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 やがて太陽が西に傾き始め、そろそろ人が少しずつ浜辺から消えてゆくころだった――白井の住む小田原のアパートに押しかけて告白してこい、と彩織が言葉やわらかにたきつけたのは。初めは渋っていたが、犬の散歩で遊歩道を歩いてきて合流した藤葉の一喝もあって、ようやく希美はその気になった。彼女は彩織を連れて(「なんでウチまで行かなアカンねん!?」「友だちでしょ!?」そう面と向かって希美と藤葉にいわれると、彩織は返す言葉をなくし、あたかも家臣の如くかしこまって親友にくっついていった。藤葉は、犬の散歩の途中だから、とそこで別れたが、そのときの笑顔が彩織にはなにやら陰謀めいたもののように感じた)、小田原へ向かった。
 駅前の不動産屋で訊ねたところでは、白井が住むアパートは小田原城の裏手、天神社のすぐそばにあるということだった。城址公園をぐるっと回って天神社まで来ると、果たしてそこに探し求めるアパートはあった。両隣は空き地と、十台ばかりが停められる駐車場だった。
 白井の部屋には電気が灯っている。白井先生、いるんだ、と希美は思った。でも、一人じゃなかったらどうしよう、どう取り繕えばいいんだろう。そう、たとえば女性が一緒だとか? 〈彩織ン報告書〉には彼女なし、とあったが、それは一ヶ月以上も前のデータだった。状況はいくらでも変わる。わずかの時間で世界は変転する。
 この期に及んで逃げ腰になっている希美を見て、彩織は、あちゃあ、と額をぴしゃりと叩き、脇腹に手をあてて、夕暮れの空を見あげた。そして、シャンとせいな、と希美の手首を摑んでアパートの外階段を昇り、白井の部屋を探し当てるとためらわずにチャイムを押した。中から忘れられようはずのない声が聞こえた。ドアが開いた。彩織は希美の背中をどんと押し、脱兎の如くその場を走り去って階段に隠れ、興味津々の眼差しで覗き見を決めこんだ。
 気がつけば希美は白井の腕の中にいた。感情が混乱していたせいもあって、希美はあまりにストレートな言葉で告白した。勢いに呑まれた白井も、その場でイエスと返事した。なによりも白井が驚いたのは、ドアを開けた瞬間に飛びこんできた希美ではなく、にやにや笑いながらドアの陰からひょっこり顔を出した彩織にだった。その後、彩織は自分に感謝しろ、といわんばかりに白井を説き伏せ、彼のアパートから二〇〇メートルほど離れた、国道一号線を渡ったところにあるガストで軽い夕食をおごらせた(この日、白井は宮木彩織の顔と名前を完全に一致させた)。
 希美はほほえんだ。あの日から私と彼は元・教育実習生とその当時の教え子という関係から、恋人同士にステップアップしたんだな。彩織に感謝だね。今日のことは日記に書くよりも先に、彩織に報告しなきゃね。
 希美は掌に置かれた小箱に視線を落とした。たぶん、この中には――
 白井が留め具をはずして、彼女に中を見せた。指輪があった。「結婚してほしい」という彼の言葉に、希美はためらいなく頷いた。その返事に安心したような白井の安堵する溜め息が聞こえた。
 左手の薬指に、指輪がはめられた。
 こぼれ落ちかけた涙を拭いながら、希美は白井を見つめた。
 「幸せにしてください……正樹さん」

 さんざっぱら引きずりまわされた池本玲子は、もういいや、と疲れた様子で溜め息をついた。これ以上一緒にいたって、なんの収穫もない。アクアミュージアムを出てからもこそこそ後をつけていたが、マリーナの岸壁に腰をおろして、ぼお、っとしている二人の背中を見ているうちに、これ以上の<尾行>は無益だ、と悟った。
 放っておいたって、白井正樹は小田原のアパートに帰ってくる。どれだけ時間が遅くなろうとも。少女と一夜を共にすることはあるまい、と本能が告げている。池本はふしぎな確信に頷いて、丘の上に行こうとしている白井と希美を見送った。楽しむがいいわ、もうすぐあなた達の幸福は音を立てて崩れ去るのだから。
 足がむくんだようで、ブーツの中でぱんぱんに膨れあがっている。どこかでブーツ、脱げないかなあ、と池本は思いながら周囲を見渡した。好都合なことに十メートルぐらい離れたところに、レストハウスが暗闇に紛れて建っている。池本はもはや二人を見ることもせずに、そちらへ歩を進めた。
 ――降ろした便座の蓋に坐りこみ、ブーツを脱ぎ捨てると池本は目蓋を閉じた。睦みあう恋人達の姿が浮かんだ。少女の嬌声と激しい息づかいが、やけに耳についた。白井の少女を呼ぶ声がこだました。薄い靄の彼方で互いを求める彼等の影がうごめいている。心の奥底から静かに嫉妬と殺意が鎌首をもたげてきた。
 深町希美よ、あんたに希望なんて与えやしない。愛しい彼を渡したりするものですか。彼は私にとっての救世主、あんたのじゃない。自分の年齢や置かれた境遇を考えてみなさいよ、どれだけ彼があんたにとって身分不相応な存在なのか、考えてみたことはあるの。彼はね、あんたの境遇に同情して近くにいるに過ぎない人なのよ。あんたみたいな小娘に私の大事な人を盗られてたまるものですか!
 池本は個室の扉を拳で力任せに叩いた。外で小さな悲鳴が聞こえ、足音が遠ざかっていった。それを聞きながら池本は口許をゆるめた。ひずんだ笑みがそこに広がった。彼が私のことを覚えていようが忘れていようが、もうそんなのどうだっていいことだ、と彼女は思った。なににもまして大切なのは――
 メメント・モリ。
 汝、死を覚悟せよ。□

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