第2464日目 〈『ザ・ライジング』第3章 21/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 そわそわした様子の白井を横目でずっと観察していて、トイレにでも行きたいのかなあ、遠慮しないで行ってくればいいのに、まだ電車が来るまで時間はあるんだし、とぼんやりそんなことを考えていた希美に、たまりかねた表情の白井が振り向いた。あ、行ってくるのかな、そう思いながら、「どうかしたの?」と希美は婚約者に訊ねた。
 「さっきはどこのパンフレットをもらったの?」
 違ったらしい。希美は内心がっかりしながら、トートバッグの中にしまった数冊のパンフレットを探った。これのことがそんなに気になってたのかしら。ただの海外旅行のパンフレットなのに。いや、と希美はいまの自分の呟きを否定した。ただの、ではない。大切なセレモニーのためにもらってきたのだ。実現されるかどうか知らないが、ここ二ヶ月の間、白井と逢うたびにつらつら描いてきた場面。
 「気になる?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべて希美は訊いた。
 白井はふいに視線をはずして、「そりゃあね……」といった。
 それを見て小さく吹き出しながら、トートバッグの中からさっきここ、新杉田駅について根岸線の改札へ行く途中の旅行代理店でもらってきたパンフレットを出した。表紙にしばし目を落としていたが、すぐに白井を見あげて、これよ、と手にしたパンフレットを見せた。
 受け取った白井の顔つきが変わるのがわかった。目が少し見開かれ、唇を噛んでいる。希美は彼から目をそらすと、小高い丘の斜面に建ち並んだ家並みから洩れる明かりを、じっと見つめた。この人は私の希望を知って、いったいどんな反応をするだろう。怒り狂うかな、それとも、諦めたように頷くかな。
 いずれも海外ウエディングのパンフレットだった。タヒチ、ブーケット、バリ――南太平洋を舞台にしたパンフレットが三冊。溜め息が横から聞こえた。どうやら不快な気分にはなっていないようだった。
 白井がそれを持ったまま、希美を見て、
 「海外で式を挙げたいんだね?」と訊いてきた。希美が返事をする前に「でも、……どこで? あの、まさか――」
 希美はその先を読んだ。地名が口にのぼる前に、彼女は「うん」と諾った。「そうよ、バリ」
 「そうかあ……」と白井はいった。
 バリ。希美にとってそこは両親の記憶につながる場所だった。幼な馴染みで中学時代から恋仲だった両親が、大学に入って二回目の夏休みに出掛け、結婚を約束した地。そして、今年十月にあったアル・カーイダの爆弾テロで命を散らせた島。ディスコ前を爆心地として周囲の歓楽街――夜ともなると観光客が自然に群れてくる地域を、あらかた吹き飛ばしたテロ事件。現地時間十月十二日夜の犠牲者名簿の中に、希美の両親、深町徹と恵美夫妻も名前を連ねていた。夫婦は結婚二〇周年の記念に思い出のバリを訪れた。娘を誘ってみたが、だって学校あるもん、いいから二人で行ってきなよ、と固辞されて、成田空港で見送られた。それが今生の別れとなり、希美の両親は帰らぬ人となった。
 両親が将来を誓った島で自分も式を挙げたい、と希美が思い始めたのは、成田空港から帰ってくる途中だった。行ったことはなかったが、写真で見る限り、そこには息を呑むような青色に染められた海が広がっていた。海上に突き出したコテージで寝て、ふと目が覚めると波の音が聞こえる。それはどんなに素敵だろう、と希美は想像を逞しうした。いつか自分も行ってみたいな、できれば……うん、正樹さんと。
 そんなことを考えていると、突然白井が自分の肩を抱いて、引き寄せた。視界が一瞬ふさがれ、白井の匂いが鼻腔を刺激した。人目さえなかったら、と希美は考えた。もっと体をすり寄せているのだろうけれど――
 「ねえ、恥ずかしいよ」
 そう希美は訴えた。もぞもぞと体を動かしてみる。
 「ごめん。つい、ね。じゃあ、まわりに誰もいないところでするよ」
 そういって白井が電光掲示板を見た拍子に、希美は彼から離れた。誰かの視線を感じたが、大して気に留めなかった。同じように電車を待っている人が、たまたまこちらを見ていただけだ。
 誰かが一緒にいる生活、っていいな、と希美は白井を見やりながら考えた。好きな人と暮らすのって、平凡だけどいちばんの幸せよね。そりゃあさ、喧嘩もするだろうし、幻滅するところだってあるかもしれないけれど、でも、それでいいんだよね。だって一人っていうのは淋しすぎるもの。すべての感情を、すべての経験をたった一人で味わうのは、あまりに惨めすぎる。ねえ、といって誰かが答える生活が、なによりも幸せ。パパとママが死んじゃってから、私はそんな経験が一度もない。一人っていうのは淋しいよね。
 希美は白井の手を取って、握りしめた。頭を彼の胸に押しつける。ようやく耳に届くぐらいの小さな声で、希美はそっと呟いた。
 「……約束して。もう、私を独りぽっちにしない、って……」□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。