第2467日目 〈『ザ・ライジング』第3章 24/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 根府川駅を発って白糸川を越え、トンネルを抜けては出るを繰り返し、左手に箱根へ連なる峰の斜面を、右手に海岸線と線路の間を並行する真鶴道路、岸辺の燠火と海上の漁り火がほの見える相模湾を望みつつ、希美と白井を乗せた東海道本線は次の真鶴駅に向かって、終着点である沼津駅を目指して、のんびりと走っていた。車内はめっきり人の数が減り、白井達の座るボックス席のまわりにもほとんど人の姿はなかった。レールの継ぎ目が原因の小刻みな揺れが振動となって伝わり、それは一定の間隔で座席に坐っている人々の体を震わせた。
 茅ヶ崎駅を過ぎたあたりからうつらうつらと舟を漕ぎ始め、じきに熟睡してしまった白井は、根府川駅での発車のアナウンスを遠くに聞き、揺さぶられれている内に目を覚ましかけ始めた。目をしばたたいていると、意識もはっきりしてきて、あたりの光景が徐々に形を取ってきた。
 気がつけば、隣に坐っていた希美がいなかった。トイレにでも行ったかな、よもや、途中下車したなんてことはないだろう。あれ、でも、向かいの席にはいないし、荷物もない。ううむ、本当に降りたのか……、おい、ちょっとやめてくれよな。僕は作者の被造物ではあるけれど、操り人形になんかなるつもりはないからな……。閑話休題。
 頭を振って、中をすっきりさせた。途端、欠伸が出た。すると、通路をはさんだ反対側のボックス席から――
 「起きた?」
 婚約者の声が聞こえた。そちらを見るよりも先に、結婚したら毎朝、こんな風にいわれるのかな、と考えた。いかんなあ、最近やけに希美ちゃん絡みで、妄想を逞しくしているような気がする。ああ、改めなきゃ。そんなことはともかく、
 「よく寝てたから、ずっと起こさないでいたの」と希美がいった。トートバッグを膝上に乗せて、愛らしい仕草で片手で抱きしめている。もう片方の手は窓枠に肘をつき、軽く握った拳を頬にあてていた。向こうの窓から民家の明かりも車のライトもないせいで、黒一色にしかここからでは見えない相模湾が横たわっている。
 白井は無意識に、ミニスカートからこぼれる希美の脚を見た。けっして細いとはいえないものの、適度に肉付きのいい脚だった。ワインレッドのブーツとチャコールブラウンのミニスカートの濃い系の色合いが、却って希美の肌の白さを際だたせている。考えてみれば、ブーツを履いた希美を見るのは初めてのような気がした。ようやくブーツを履く季節になったのだから、それも致し方のない話かもしれなかったけれども。手袋を脱いだ、トートバッグを抱える左手に指輪が光っている。
 「エッチなことでも考えてるんじゃないでしょうね?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべながら、希美がそう訊いた。質問というよりは詰問だな、と白井は思った。彼は首を横に振りながら、「違いますとも」とそれを否定した。心の片隅で少しは考えていたが、なに、それはいつものことだった。然り、いまに限ったことではない。
 「そっちに行ってもいい?」
 希美が「いいよ、どうぞ」といって、左手を彼に差し出した。
 白井は腰をあげて、希美の前に移動した。窓の外を見て、「そうか、こっちの方が海が見えるんだね」といった。返事はなかったが、彼女が頷くのを視界の端にとらえた。
 ――もう独りぽっちにはなりたくないし、戻りたくもない。いつまでもそばにいる、って約束して。 
数時間前、八景島でプロポーズを受け入れた希美が、ぽつりと呟いたのを思い出した。いま目の前で彼女が見せている笑顔は、終生癒されることなき傷を隠すための仮面でもある。僕もそれなりに、いや、誰もがそれなりに傷を抱えて生きている。けれど、希美ちゃんの抱える傷はまったく違う種類のそれだ。僕らの傷なんて「傷」というのもおこがましい。……もし僕にできるのなら、ずっと希美ちゃんのそばにいて、わずかでも彼女の傷を癒していきたい。
 ああ、もう独りぽっちにはしないし、戻らせもしない。約束するよ。
 「希美」と彼は呼びかけた。ハッとした表情で希美が白井を見る。刹那、目が合った。下唇を噛んで、未来の妻を見つめた。過去に出会った人々の顔や声が、かつての職場の同僚達の姿が、くっきりと心に浮かんだ。やがてそれらは消えてゆき、代わって行員時代に愛を交わした件の女性の姿が立ち現れた。その人があなたに添い遂げる人なのね。彼女の目はそんなことをいっているようだった。する内、その女性も消えた。目の前から靄が晴れてゆくような気分だった。僕はこの子と結婚するよ、と白井は誰にいうでもなく胸の中で呟いた。必ず幸せにするし、命に代えてでも守ってみせる。それが、これまで自分の心に悪夢の如くまとわりついて、機会あるたびに苛まされてきた思い出と決別するにあたっての約束。
 抗うこともせず、希美は白井に抱かれ、膝の上に腰をおろした。白井は希美の頬を撫で、髪に顔を埋めた。静かに吐かれる息が彼女のうなじを撫でる。それに希美は小さな喘ぎ声をもらした。無言のまま離れると、彼は希美を胸にかき抱いた。
 約束しよう。
 希美が自分の両腕を白井の首へまわしてきた。目蓋が閉じられ、唇が薄く開かれている。白井は希美の唇に自分のそれを重ねた。軽く触れあう程度のものだった口づけはやがて、相手の存在を確かめ、求めるような濃厚な――もちろん、希美にとっては初めて交わす男と女のキスになっていた。□

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