第2468日目 〈『ザ・ライジング』第3章 25/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 玄関の前で希美は振り返った。自宅から十メートルほど離れた曲がり角の電柱の脇に立って、白井がこちらを見ていた。いつもと同じ、別れのシーンだった。どちらからともなく手を振ってみせる。希美の顔に浮かんでいた幸せそうな笑みが、さらに広がり、深みを増したようだった。できることなら、と身を切るような想いを抱きながら、心の中で呟いた。いますぐ走っていって、もう一度、あの人の腕の中で抱きしめられたい。でも、今日はもうお開き。二人にはわかっていることだった。楽しみはちょっとずつ、と曰ったのは、他ならぬ自分ではなかったか?
 くしゃみをしたか、白井の影が前のめりに大きく揺れた。鼻の下をさすっているのが見て取れた。
 私が家に入るまで、正樹さんはああしてこちらを見ているのだろう。それもいつものことだった。ならば続く動作もいつもと同じように――
 希美は軽く手を振り、玄関の重い扉を開けて、家の中に入った。もちろん、その間際に婚約者へ一瞥をくれるのは忘れない。
 はああ……。大きな溜め息が希美の口からもれた。別れたばかりの切なさが、その溜め息を生んだのではない。帰りの電車の中で知った、大人がするような舌と唾液が絡まりあうキス。そして、バスを降りてからそこの曲がり角で別れるまでの間に、公園の暗がりでそのキスを交わしながら、互いの体へ掌を這わせあったときに感じた胸の火照りと、じっとり濡れた股間の入江。自分も白井を求めているのは承知している。約束――十八になるまで待って、というあの約束さえなければ、今夜にでも未来の夫へ純潔を捧げていただろう。彼のアパートに初めて一人で出掛けたとき、自分に覆い被さってきた白井を制するため、とっさに口から出た呪縛という名の約束に、いったいどれだけの重みと神聖さがあるというのか。いまさらながら彼女は、なぜあんな約束をしてしまったんだろう、とぞろ後悔した。とどのつまり、痛い思いを少しでも先に延ばしたかっただけなのでは――?
 希美は玄関扉を開けて一歩足を踏み出し、曲がり角の電柱へ目をやった。が、もうそこに彼の姿はなかった。がっかりした様子でうなだれて、再び扉を閉め、鍵をかけた。まだあすこにいたならば――私は彼を家に誘っていた。食事を作り、お風呂に入って、その後は……痛みと喜びの入り混じった朝を迎える、隣には正樹さんがいて……。クリスマス・イヴになれば彩織達とのパーティーでそれを報告。きっと大騒ぎが巻き起こるに違いない。
 自然と笑みがこぼれた。でも、これでよかったのかもしれない。そんなに焦って処女でなくなる必要はない。もうこれから私と正樹さんはずっと一緒なんだから。焦る必要なんてまったくない。そう、時間はたっぷりある。然るべきときに〈女〉にしてもらえばいい。 ブーツを脱いで消臭剤をそれぞれに入れてから、トートバッグを持って廊下から居間に歩いてゆき、電気を点けた。仏壇の前で立ち呆け、両親の写真に見入った。希美は鉦を叩くと、目をつむって合掌した。
 「パパ、ママ。今日ね、正樹さんにプロポーズされたんだよ。……私、あの人と結婚するから。必ず幸せになるから。だから、いつまでも見守っていてね……」

 街灯と門灯が路面を照らす幅の狭い道を、白井は弾むような足取りで歩いていた。口許はしまりなくゆるみ、鼻の下もこれ以上ないぐらい伸びきっている。こらえようのない程の歓喜が胸の奥底からこみあげてくる。四囲を見渡して道行く人のないことを確かめると、彼は両腕を突きあげて、爪先立ちで一回転した。続いて二度、三度と。心の中で希美の名前を叫ぶ。おめでたい男だった。が、この程度は勘弁してあげよう。彼はわずかしかない勇気を振り絞って希美にプロポーズし、ああ、イエスの返事をもらったのだ。気持ちが舞いあがるのは致し方ない。既婚の男なら誰もが最初はこうだったはずだ。いまはこの喜びを噛みしめよう。レイ・ブラッドベリ風にいうならば、「歌おう、感電するほどの喜びを!」だ。
 コートのポケットに手を突っこんで、再び歩き始めた。知らず知らずのうちに口笛を吹いていた。メロディはなぜか、ヴェルディのオペラ『椿姫』第一幕の「乾杯の歌」だった。口笛が、合唱も加わるフィナーレへ至ろうとした矢先、白井は天神社の前に黒のアウディが停められているのに気がついた。――でも、僕には関係ないさ。路上駐車している車の一々にまで注意を払っていられるかっての。ごもっとも。
 そのままアウディの横を通り過ぎ、五メートルばかり歩いたところで、ドアを開閉する音が聞こえ、かつん、と路面を打つ音が耳についた。気をつけよう、暗い夜道となんとやら。お馴染みの標語が一瞬ながら白井の脳裏をかすめ、君子危うきに近寄らず、という『論語』の一節が思い出された。白井は肩を振るわせ、背中を丸め、その場から遠ざかろうと歩を早めた。
 「待って、白井さん」と呼びとめられた。思わず心臓が停まりそうになった。暗がりで見知らぬ人に呼びとめられるほど、心臓に悪いことが果たしてあるだろうか? 白井はそんなことを思いながら、おそるおそる振り返った。

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