第2469日目 〈『ザ・ライジング』第3章 26/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 女が腕組みをして、アウディのボンネットに寄りかかっている。ピンヒールのブーツを履き(さっきの鋭い音はこれか、と白井は合点した)、深紅のコートを着ていた。なにを思っているのかまったくわからない目で、じっとこちらを見つめている。白井は背中に恐怖心が走ってゆくのを感じた。そして、あれ、と思った。
 どこかで会ったような気がするな。
 確かに見覚えのある顔だったが、どこで会ったのか、さっぱり思い出せなかった。ヒントになりそうな記憶さえ浮かびあがってこない。自分の名前を知っているということは、面識はあるんだよな、きっと。でも、思い出せなかった。学生時代の知り合い。銀行にいたときの同僚、顧客。アルバイト先の塾に通ってくる学生の保護者。聖テンプル大学付属沼津女子学園の教職員。……どれだけ頭をひねってみても、記憶にある人々と目の前にいる人物は該当しそうもない。
 どなたでしたっけ? 気を悪くするかもしれないが、そう訊いてみようか、と白井が考えていると、
 「思い出せないの? 覚えてくれていると思ってたのになあ。仕方ないわね、改めて自己紹介するわ。聖テンプル大学付属沼津女子学園の池本玲子です。保険医なんだけど、記憶にない?」
 白井は思わず眉間に皺を寄せた。――ああ、あの人かあ、思い出した。教育実習は希美に逢えたというのを別にしても、彼にとても良い思い出を残した。唯一の例外、というか、汚点だったのが、目の前にいる池本玲子だった。二日酔いで学校に来たとき、それと察した高村が保健室に行くのを奨めてくれ、内心それに感謝しつつ、そこを訪れた。池本玲子とはそのとき初めて会った。保健室の先生ってね、評判の美人なのよ、と高村が教えてくれたものの、目の前にいるご本人はさして評判が立つほどではないな、と白井は率直に感じた。仕方ない、そのとき既に彼の目も心も、深町希美にのみ向けられていたのだから。汚点というのは二回目に保健室に行ったとき、具合が悪くて保健室のベッドで休んでいたときだ。休み時間こそ生徒達が入れ替わり立ち替わりお見舞いに来ていたが、授業が始まると当然のことながら、部屋には池本と白井だけになった。授業時間も半分を過ぎたころ、もう大丈夫だろう、と起きあがって池本に礼をいって部屋を出ようとした。そのとき、ものすごい力でベッドに引き戻され組み敷かれ、白衣とブラウスを脱ぎ去って迫ってきたのが池本だった。彼はほうほうの体でその場を逃げ出し、二度と保健室に足を向けることを拒み、池本を可能な限り避けた(少なくとも二人にならないように注意した)。
 なんでこの人、ここにいるんだ? しかも、よりによって生涯最高の日に?
 途端、白井は全身に悪寒が走ってゆくのを感じた。その場から逃げ出そうと踵を返しかけた。
 「待ってよ。話があるのよ」と池本がいった。
 顔が苦虫を噛みつぶしたようになるのがわかった。
 「あなたが学校にいたときは伝えられずに終わっちゃったけど、今夜こそいうわ。白井さん、私、あなたが好きです。付き合ってもらえないかしら?」
 「はっきりいった方がいいですよね?」と白井は池本から視線をそらした。正面から目を合わせていると、例えようもない恐怖に耐えられそうもなかったからだ。「僕はもう付き合っている人がいるんです。今日、その人と婚約したので、先生とは付き合えません。申し訳ないんですけれど」
 「深町さんね?」
 思わず背筋が伸びた。なんで知ってるんだ、この人? 疑問を口にするより前に、池本がいった。
 「知ってたわよ。有名だったもの。これまでに何度デートしたの? ううん、こう訊いた方がいいかしら。何回あの子を抱いたの?」
 「――そんなの、先生の知ったことじゃないと思いますけれど」
 不快な気持ちが感情の表面に浮かんできている。きっと顔に出ているだろうな、と白井は思った。でも、ここで事を荒立てるわけにはいかない。一歩間違えばこの人は、そう、希美ちゃんに逆恨みしかねないから。「帰っていいですか?」
 「そうか、まだあの子、〈女〉にしてもらってないのね。もうてっきり、深町さんの若い体に溺れているんだと思ったけどね。横浜じゃどこにも寄りそうになかったから、あの子の家でエッチしてくるとばかり思ってたのに」□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。