第2470日目1/2 〈『ザ・ライジング』第3章 27/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 白井は顔をあげた。まっすぐに池本を見た。
 「なんで横浜に行ったのを知ってるんですか?」と白井はいった。「つけまわしてたんですね、気持ち悪いな」
 今度は池本が白井に目を向ける番だった。気持ち悪い、ですって? この私のやることに気持ち悪いことなんてあるものか。すべて私が快適な人生を送るために必要な行為なのよ。それがあなたにはわからないの? でもね――
 「いまのは聞き捨てならないわね。気持ち悪いってなによ。あなたのことが好きなんだから、仕方ないじゃない!」
 「やめてくださいっ!」
 白井が叫んだ。澄み渡った夜の空気の中で、それはいっそう響いて聞こえた。誰かが窓を開けて外を窺う気配があったが、単なる痴話喧嘩と判断したか、すぐに気配は消えた。あたりにしんとした空気が帰ってきた。ゆっくりと時間が流れてゆく。一秒が一分にもそれ以上にも感じられた。
 「好きでいてくれるのはうれしいですけど、先生のはまるで愛の押し売りですよ。そんなのを受け容れる男はいませんよ。少なくとも、僕はお断りです」
 「あ、あんな小娘に夢中になるなんてどうかしてるわよ。自分とは不釣り合いだってこと、わからないの?」
 「わかりません」と白井は間髪入れずに答えた。「それに互いが不釣り合いだなんて思ったことはありませんよ。確かに年齢は離れてます。でもね、そんなの問題じゃないんです。僕には彼女が必要だし、彼女も僕を必要としてくれている。必要、っていうのが事務的ないい方なら、こういい直しましょう。僕はずっと彼女にそばにいてほしいと思いました。彼女のそばにいたいと思った。だからあの子と婚約したんです。傷を抱えた者同士、お似合いだと思いませんか?」
 「違うわよ! あなたにふさわしいのはこの私。深町のような年端もいかないガキじゃないわ。私の方がいい女だってこと、あなたにわからないはずないでしょ!?」
 「わかりませんよ。わかるつもりもない。僕にとってあの子こそ最良の女性だと思ってます。ねえ、先生。僕は先生のことはまったく知らない。先生だってそうでしょう?」
 「そうかもしれないわね」と池本はいった。「でも、そんなの関係ないわ。これからお互いのことを知っていけばいいわけじゃない。恋や愛というのはそういうものよ」
 「お断りします」と白井は相手を封じるようにいった。「さっきもいいましたけどね、僕は彼女と婚約しました。誰よりも大切な存在だったからです。確かに先生にいわせれば年端もいかない女の子ですよ。けれど、あの子は先生よりもずっと大人ですよ。少なくとも先生のように相手の気持ちも考えず、自分の願望を押しつけてくるような理不尽さは持ち合わせていない。ついでにいえばね、あの子は他人の苦しみや哀しみをわかってあげられる、他人の幸せを心から喜んであげられる子ですよ。先生はあの子が抱えた哀しみを、何分の一かでもわかってあげられるんですか? 他人の心の傷を踏みにじれるなんて、僕は先生という人間が理解できませんし、信じられません。――とにかく、僕は彼女以外の女性を受け容れるつもりなんて、これっぽっちもありませんから」
 一息にそれだけまくし立てると、白井は池本に背を向けて、すたすたと歩き始めた。
 「必ず破滅させてやる! あんたも深町もこの世から消してやる!」
 なんとまあ、理性の欠片もないわめきだこと。これでもあの人、教員なのかな、と白井は訝しんだ。その一方で彼女の独裁者めいた性格に薄ら寒いものを感じた。帰ったら、このことを希美ちゃんに伝えておいた方がいいかもしれないな。
 白井は、この十分ばかり続いたのだろうか、池本との会話を、いまはつとめて記憶の底に押しやろうとした。今日一日にあった希美との楽しい思い出が心の中を駆けめぐる。だが、どうあってもクライマックスは八景島でのプロポーズに立ち返る。あのときの感情と共に、目を潤ませてこちらを見る希美の顔が甦ってきた。もう独りぽっちにはしないし、戻らせもしない。ああ、そうとも。約束するよ。
 郵便受けから新聞を取って、アパートの階段のいちばん下の段に足を置いたとき、ふといま来た道を振り向いて池本の姿が見えるか確かめようとした。天神社の境内やその手前にある家の庭から大きく伸びている、葉をたわわにつけた枝が道路に垂れている。いま帰ってくるときは気がつかなかったが、どうやらそれが格好の隠れ蓑になってくれていたようだ。それに、アウディのいるところからアパートの全景は見えないはずだ。それはよくわかっている。なぜなら、二度目にここを訪れた希美が道に迷ったと信じこみ、まさしくアウディが停まっているあたりから「なんだか道にね、迷っちゃったみたいなんだけど……」と携帯電話で連絡してきたのを覚えていたからだ。うん、平気だろう、このまま帰っても。白井はゆっくりと階段を昇って、視線をまっすぐ前に向けて自分の部屋まで歩いていった。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。