第2473日目 〈江戸川乱歩『黒蜥蜴』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 1冊読み終わる頃になるとまたぞろ次に読みたくなる作品を見附けてしまい、なかなか新しい作家へ移るタイミングを摑み損ねてしまっている──これを乱歩中毒の一症例と捉えずしてどうするか。長編『黒蜥蜴』と『盲獣』と『幽霊塔』はそうやって買いこみ、書架に溜まり、読む気でいた作品であったが、ちと事情があって乱歩読書は『黒蜥蜴』で一旦中断して残りの2作は何ヶ月後かに改めて読むことに決めたところだ。そんなわけで今回の『黒蜥蜴』感想を以て、ここしばらく続いていた乱歩絡みのエッセイはひとまずピリオドを打つことにする。
 『日ノ出』誌昭和9年1月号から12月号まで連載された『黒蜥蜴』は当時作者の思惑とは反対に読者の拍手喝采を浴びた由。本格探偵物で評価されたがっていた乱歩にとって、仕方なく筆を執った通俗スリラーが評判を取ったことはどれだけ複雑な思いを抱かせたことか。それを推理するにわたくしは力不足だけれど、読者の好評と書肆の商売っ気がその後の乱歩をして通俗スリラーの筆を執らせ続け、かつ江戸川乱歩の名を不朽のものとなさしめた要因となったことは間違いないだろう。本作がその転換点にあったのか定かでないが、わたくしのようなミーハーには実にありがたい限りである。発表当時、『黒蜥蜴』を熱狂して迎えた読者たちよ、あなた方に神様の微笑みを。
 さて、では『黒蜥蜴』。本作は三島由紀夫の戯曲、美輪明宏の舞台が江湖に知られ、却って天知茂の<美女>シリーズの一、『悪魔のような美女』の原作であることの方が知られていないけれど、これまで乱歩の長編をなにも読んだことがない方がいて、その方がどれか1作ハズレのない作品を教えてほしい、と訊ねられたら、躊躇なくこの『黒蜥蜴』をオススメしたい。事実、わたくしは『孤島の鬼』以上に夢中になり、ハラハラドキドキを味わい、ページを繰る手を抑えるに強い意志を必要とし、読む度毎に残りページが少なくなってゆくのに淋しさを募らせ、そうしてなんというても明智小五郎と黒蜥蜴こと緑川夫人の丁々発止の頭脳戦と淡いロマンスの行く末に身悶えしたのだった。
 読者諸兄は既にご存知と思うが、わたくしは乱歩の全作品を読み果せたものではない。とはいえ、この緑川夫人──黒衣婦人──女賊──黒蜥蜴は乱歩が描いた数ある女性のうち、最も魅力的かつ蠱惑的、そうして最も妖艶にして才色兼備なヒロインだったのではあるまいか。かの名探偵明智小五郎とタメを張る明晰なる頭脳、豊かなる肉体美と類い稀なる美貌、一朝一夕ではけっして身に付けられぬ人心掌握の術、或る意味で明智を籠絡することのできた、かれの心に<自分>という存在を深く刻ませることのできたほぼ唯一無二のヒロインこそが、黒蜥蜴こと緑川夫人だったのではあるまいか。明智との淡いロマンスも、互いに同類と認め合うたがゆえ、必然的に生まれた宿命的なそれであったことだろう。2人のロマンスこそが本作を乱歩長編のうちでも特異かつ不朽の作となさしめているのだが、三島由紀夫は後年この点を前面に打ち出して戯曲『黒蜥蜴』を執筆したのだった。
 最後、感想の筆を擱くに際して『黒蜥蜴』の粗筋を創元推理文庫の裏表紙から転写する。粗筋をまとめる能力の劣るがゆえの行為を、どうか関係者各位よ、寛容の気持ちを以て諒とされよ。「社交界の花形にして暗黒街の女王、左の腕に黒蜥蜴の刺青をしているところから、その名も〈黒蜥蜴〉と呼ばれる美貌の女賊が、大阪の大富豪、岩瀬家が所蔵する日本一のダイヤ『エジプトの星』を狙って、大胆不敵な挑戦状を叩きつけてきた。妖艶な女怪盗と名探偵明智小五郎との頭脳戦は、いつしか立場の違いを越えた淡く切ない感情へと発展していく。あまりにも著名な長編推理。」
 ──冒頭で述べたように本稿を以てこれまで断続的に綴られ、本ブログにてお目に掛けてきた乱歩の小説の感想は一旦終わる。番外的に久世光彦『一九三四年冬──乱歩』(新潮文庫)の感想を近日ここで公にすることになるけれど、読書そのものを中断した『盲獣』や、本稿初稿を書きあげたその足で寄った古書店にて購入した『魔術師』や『影男』などを読んでの感想は後日、おそらく来年度となろうが執筆してお披露目させていただく。これは横溝正史や夢野久作についても同様である。それではごきげんよう、親愛なる読者諸兄。◆

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