第2474日目 〈夢野久作短編集の相次ぐ登場を喜ぶ。〉 [日々の思い・独り言]

 通い馴れた書店の文庫売り場にて夢野久作『ドグラ・マグラ』を手にしたのは、当時熱中していたクトゥルー神話の重要アイテムたる数々の魔道書を連想させるものがあったからだ。<読む者は皆精神に異常を来す書物>──まるで『ネクロノミコン』かなにかのようではないか! それからどれだけ時間が経ったのか、行きつけの古本屋で『ドグラ・マグラ』上下巻のセットを300円程度で見附けて買いこみ読みはしたけれど、なんだか精神に異常を来すなんて嘘っぱちだなぁ、なんて的外れの感想を抱くが精々で、以後本棚の奥深くへしまいこんでしまったことである。
 話は前後するが、夢野久作の小説を読んだのは、実は『ドグラ・マグラ』が初めてではない。椎名誠・編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫)に収められた「悪魔祈祷書」がそもそもの馴れ初め。『ドグラ・マグラ』なんていう妖しげな響きのタイトルを持つ小説の存在を知ったのは、そこに掲げられていた作者案内だったろうか。この「悪魔祈祷書」には妙な迫力と魅力がありましてね、件のアンソロジーのなかでいちばん読み返すことの多かった作品ではなかったかしら。それが夢野久作の代表的短編の1つであるとは、そのときは露とも知らず、<夢野久作>というちょっとふしぎな名前ばかりがくっきりと記憶にこびり付いた。
 薄々お察しいただけようか、その後わたくしが夢野久作の著作へ触れること、ただの一度もないままなく今日へ至っているのを。よその大学生協で現代教養文庫版傑作集全5巻を幾十度も目にして何度かは手に取ってぱらぱら目操っていたというのに。ちくま文庫版全集は華麗に見過ごしてもいつの間にやら刊行点数の減った角川文庫の作品集は意識に上すこと多々で、「いつかそのうち読む機会が訪れるのだろうか?」と疑問符を浮かべつつ、いつも視界の隅でチェックは怠らずにきたというのに。──どうしたわけか、わたくしが夢野久作の小説に親しむことがないまま今年2016(平成28)年の秋を迎えている。
 然様、いまこの時期になって風向きは変わったのである。もちょっと正しくいえば、その兆しが訪れたのは盛夏の時分だ。創元推理文庫から『少女地獄 夢野久作傑作集』が出た。『日本探偵小説全集』が新刊書店の棚に見掛けること稀になってきた現状に鑑みて、これを解体して何冊かの傑作集に編み直そう、とでもいうのか。さすれば近い将来『ドグラ・マグラ』も上下2巻本で新たに刊行されるというフラグか、この『少女地獄』の出版は?
 とはいえ、ちかごろ購書については結構腰が重くなっていた頃の発売だったのが災いして(?)、すぐにレジへ運ぶことはなかった。振り返ってみれば、まだ夢野久作の重要性をそれ程認識していなかったのだろうね。わたくしに夢野久作認識を強く迫ったのは、10月末に刊行された『死後の恋 夢野久作選』(新潮文庫)であった。別に<没後80周年>てふ帯の惹句に煽られたわけではないが、こちらは発売日から約1週間遅れただけで購入した──先の創元推理文庫版傑作集と一緒にね。
 新潮文庫では今回の『死後の恋』を端緒に傑作選全3巻の実現を想定している由。現代教養文庫から出ていた全5巻の傑作集がかつて果たしていた夢野久作入門の役割を、今回の新潮文庫版傑作集が代わって務めるという目論見があるそうだ。ならば現役文庫で2冊の短編集を持つ角川文庫は入門用に適さないのか、なんて疑問の声があがるかもしれないけれど、もはや古典の地位を占めたにも等しい作家であるならば、複数の会社から読めるようになる(=購入にあたっての選択肢が広がる≦懐具合によって選ぶことができる>全国の能う限り多くの書店の棚に置かれるようになる)のは喜ばしい出来事なのだから、あまりその点に執着するのはやめよう。それに、各社の文庫が採用する底本が異なれば細かな部分の印象も変わってくるだろうし、収録作や註釈、解説などという点で各文庫で違う楽しみ方も自ずと生じよう。いまのわれらにできるのは、この新潮文庫版傑作集の無事の完結を祈って『死後の恋』が1冊でも多く売れるよう、購書運動を展開することぐらいだろう。
 ところで新潮文庫版の編者は同文庫『江戸川乱歩名作選』も担当した日下三蔵である。実は日下はこれに先立つこと18年前、即ち2006(平成10)年に角川ホラー文庫から『あやかしの鼓 夢野久作怪奇幻想傑作選』を編纂している。趣旨は新潮文庫版と同じく夢野久作入門としてであるが、レーベルの意向を汲んで怪奇幻想風味の漂う作品を専らセレクトした、と特に記しているのは一種のリップサービスか。だって夢野久作の作品は要素の濃淡こそあれ、怪奇幻想風味漂うものが専らなのだから。
 備忘も兼ねて創元推理文庫(創)、新潮文庫(新)、角川ホラー文庫(角)それぞれに収録される短編を以下に掲げておく。実は『あやかしの鼓』には続巻『人間腸詰』があるけれど、こちらは未架蔵ゆえ以下に収録作を並べることは控えさせていただく。
 死後の恋:創、新、角
 瓶詰の地獄(瓶詰地獄):創、新、角
 氷の涯:創
 少女地獄:創
 悪魔祈祷書:新、角
 人の顔:新
 支那米の袋:新、角
 白菊:新、角
 いなか、の、じけん:新、角
 怪夢:新、角
 あやかしの鼓:新、角
 所感:新
 難破小僧:角
 幽霊と推進機:角
 新潮文庫と角川ホラー文庫についていえば、さすがに編者が同じだとラインアップも似るようだが、それは致仕方あるまい。新潮文庫版がつつがなく全3巻で完結したら、創元推理文庫や角川ホラー文庫2冊に収められた短編群に加えて、珍品名品の類をも取り揃えられるだろうことは必至である(なお、「所感」はデビュー作「あやかしの鼓」が「新青年」誌の小説公募にて2等入選を果たした際の作者コメント)。更に多角的で厚みのある夢野久作選集をわれらは手にすることとなるに相違ない。
 しかし、今年はいったいなんという年であろう。こうまで小説ばかり(というのも語弊はあるが)読み暮らし、嗜好するジャンルが変化したのをはっきり実感した年が過去にあったか定かでない。精々ホラー小説に開眼した1986(昭和61)年と日本古典文学の泥沼に嵌まった1990(平成2)年が特記に値する程度だ。今年に即していえば、探偵小説の面白さを知ったことが挙げられる。これまでわたくしは近代、その黎明期から戦前/戦中へ至るまでの探偵小説を頗る付きで冷遇してきたように思う。そこへ江戸川乱歩が登場して考え直すことを迫られ、横溝正史『獄門島』や森下雨村『白骨の処女』(河出文庫)を読み、今回トドメを刺すかのように夢野久作が出現した。それも、没後80年に併せたと雖もれっきとした新刊で! とまれ、これでずっと意識の下で引っ掛かっていた居心地の悪さは解消され、どうしたわけか抱いていた後ろめたさから解放された気分だ。
 新しく開拓されたこのジャンルの愛好作家に夢野久作が加わったこと、微妙に収録作が異なる各文庫でかれの小説を愉しむことができることに、わたくしはいまささやかながらも幸せを感じている。……まぁもっとも、いつ頃から読み始められるか現時点ではわかりかねるけれどね。
 さて、それでは電脳空間をほっつき歩いて、角川ホラー文庫『人間腸詰』と現代教養文庫版傑作集全5巻を探すとしようか。刊行が開始され始めた国書刊行会版全集は……もうちょっと先延ばしにしようと思う。◆

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