第2480日目 〈長倉書店版岡本綺堂著『修禅寺物語』について。〉 [日々の思い・独り言]

 新しい作家の本を手にするのは意思が必要で、戦前戦中精々が戦後間もなくの頃の作家の本には喜んで飛びついてしまう傾向が、どうやらわたくしにはあるらしく。……先達てのエッセイのなかで、年末は或る本の感想を書くのに手間取って読むつもりでいた現代作家の小説を読むことができなかった、と書いた。
 最初に述べた「新しい作家の本」というのが読まずに年を越してしまった現代作家の小説なわけだけれど、こちらは今日になってようやっとページを開いて読み始めたところである。本当なら一昨日あたりから読む予定でいたのだが、何の気なしに書架から取り出した作家の本へ夢中になって今日の明け方まで読み耽ったことから、やっと現代作家の小説に手を着けた次第。
 偶々年末の大掃除のとき、あちこちに散っていた岡本綺堂の本を発掘、一ヶ所にまとめたことから上述のような出来事が出来したわけだけれど、わたくしが読んでいたのは《半七捕物帳》や《三浦老人昔話》、《青蛙堂鬼談》など綺堂の代名詞的シリーズではない。小説/戯曲「修禅寺物語」を柱にして綺堂が書き残して文庫化された戯曲とエッセイを読んでいたのだ。
 綺堂の、ノン・シリーズでの代表作といえばこの「修禅寺物語」が夙に有名だけれど、戯曲と小説、そうして「修禅寺物語」にまつわるエッセイだけで構成された文庫が、長倉書店という出版社から1997(平成9)年に刊行されている。この長倉書店というのが伊豆修善寺に住所を置く会社ゆえ斯様な企画ということなのだろうが、伊豆で育ったわたくしにとってこれ程綺堂本のなかで鍾愛おく能わぬものはない。
 自分が育った地のすぐ近郊にこのような謂われを伝える場所がある。その謂われを基にして好きな作家が今日なお名作の誉れをほしいままにしている作品を残した。そうしてそれにまつわる作品を一本にまとめた文庫が所縁の地で出版されて、近郊で育ったわたくしの手許にある。これらを一種の巡り合わせと考えることに、いったいなんの不都合や雑言を叩かれる余地があろうや?
 ──実は、想いの深さ、強さもあって、本稿にてこれの感想を認める気は微塵もない。当初からその予定であった。付言すれば、読み終えて間もないことからまだ感想というべきものをまとめられないでいる(これがいちばん大きな理由かも)。為、これの感想は後日として、ひとつだけ、──
 今回の大掃除でわたくしが発掘した長倉書店発行の『修禅寺物語』だが、「修禅寺物語」に加えて、今度は戯曲ばかり4編(「佐々木高綱」、「尾栗栖の長兵衛」、「俳諧師」、「新宿夜話)と戸板康二の解説、坂東三津五郎と円地文子のエッセイ、「代表作品解題」や「年譜」などを併載したものが存在して、架蔵している。1967(昭和42)年8月初版発行、1985(昭和55)年重版発行(月の記載なし)の旺文社文庫版なのだが、解せぬことに本書には長倉書店の社名が印刷されたカバーが掛かっている。「旺文社」の文字はどこにもない。
 古書店での購入だからどこかの段階でカバーと本体が掛け変わってしまったのだろう、と考えるのが普通なのだが、実物を瞥見する限りではそうした理由でもないらしい。というのも、カバーは長倉書店、本体は旺文社文庫なのだが、双方に記載されたISBNコードは一緒なのだ。これはいったいどうしたことなのだろう。インターネットで調べてみると、わたくしが所持する長倉書店の社名が入ったカバーを持つ文庫の確認はできない。代わりに、同じデザインのカバーで旺文社の社名が入ったものは幾らでも見附かるのだが……。果たしてこのようなことがあり得ようや?◆

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