第2483日目 〈『ザ・ライジング』第4章 3/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野宏一は足をよろめかせながら保健室を出た。蔑むような笑みを湛えた赤塚理恵がそれに続く。彼等の背後で、扉が音もなく閉められた。
 池本玲子はようやく静かになった保健室を見渡した。これから約三時間、自由に過ごすことができる。おそらくそれは自分に残された、最後のやすらぎの時間だろう、と池本は思った。ミニ・コンポの再生ボタンを押してスピーカーから流れてきたのは、リヒャルト・ワーグナー最後のオペラ、舞台神聖祝典劇《パルジファル》。第一幕前奏曲の厳かな響きが部屋に満ちてゆく。幾重にも重ねられた薄い紗のベールを一枚ずつ剥いでゆくような気分にさせられた。と同時に先ほどまで行われていた、猥雑な計画の残り香が浄化されてゆくような思いも感じられた。
 彼女はくるりと体の向きを変え、視線を正面のベッドに据えた。上野は意外なまでに従順だった。念書を手に入れて安心したせいだろう、と池本は勝手な想像をめぐらせた。あながちそれが間違っているとは思えなかった。鍵の掛かった保健室で彼等は最後の打ち合わせをしていた。なにもいわずに頷くだけの上野が逆に不安だった。それを口にした池本に上野は答えた、もうすぐすべてが終わりになるからさ、とだけ。
 もうすぐすべては終わる。そう、確かに。深町希美は暴行され、白井正樹は私が息の根を止める。そうなれば上野は晴れて池本から解放され、大河内かなえと幸福な日々を送る。私は……十中八九、捕まるだろうな。でも、いいや。白井を誰かに渡すぐらいなら、この手で殺してやる方がいい。それで捕まるなら本望だ。理恵ちゃん? さあて、あいつはいったいなにを得るというのだろう。仮に深町が消えたとしても、姪がハーモニーエンジェルスの一員になれようはずはあるまい。それに、この姪がどんな末路を辿ろうと、私の知ったじゃあない。
 まあ、上野や姪の行く末がどうなろうとも、白井正樹と深町希美は多かれ少なかれ、血を流すことになる。片方はおそらく致死量の。もう片方は、女になった証の血。昨夜の一件で、もはや白井を殺めることに抵抗はない。赤塚にしても周囲から冷笑を浴び、蔑まされる原因となった同じ部活の仲間を陵辱させることに、罪悪感なんて抱いていないだろう。
 吹奏楽部の練習が終わったら深町を犯る、と彼は誓った。練習が終わったら姪が連絡をくれることになっている。そうしたら私は音楽準備室に移動して、上野の欲望を高める手伝いをする。その間に姪が深町さんを呼びに行く。なに、簡単なことではないか。
 天皇誕生日で学園は休校、登校してくるのも吹奏楽部と水泳部の生徒と顧問ぐらいと知って、池本は今日を計画の実行日と定めていた。今日学園に来ている教職員の数なんて高がしれている。上野を除けば吹奏楽部の練習室/部室のある六階に来るような暇人もあるまい。生徒に至ってはなおさらだ。そうして、陵辱劇は始まる。その現場に立ち会うことはできないけれど、あとで理恵ちゃんの撮った証拠映像で楽しめばいい(でも、果たして楽しむ時間が私に残されているだろうか?)。もちろん、それをネタに後日、上野を脅迫するつもりなんてさらさらない。その程度の誠実さは持ち合わせているつもりだ。……。けれどあの同情の余地なき姪っ子は……失敗したかもしれないな、理恵ちゃんを始末する手筈を考えなかったのは。誤算であった。でもまぁ、なんとかなるだろう。一人ではなにも実行出来ない腰抜けだ。
 池本は机のいちばん上の、鍵の掛かった引き出しを開いた。中からタバコと白井の写真を取り出して、じっと眺めた。やがて彼女は写真を二つに引き裂き、灰皿の上にくべてライターで火をつけた。火種はいつしかめらめらと燃えあがってゆく。それを見つめる池本の顔に笑みが広がった。見る者の背筋を凍らせるような笑みだった。瞳に炎のゆらめく様が映っている。
 灰皿の炎で火をつけたタバコをゆっくり吸い、紫煙をくゆらせた。池本はそれを眺めながら、留置場に入ってもまわりには飢えた男どもがたくさんいるんだから、セックスする相手には不足しないよね、きっと、とぼんやりそんなことを考えていた。吸い終わると彼女は、手紙を二通書いて時間を過ごした。□

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