第2484日目 〈『ザ・ライジング』第4章 4/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 年末恒例になっている特別演奏会、今年のメインは、パウル・ヒンデミットの《交響曲変ロ調》だった。吹奏楽史上もっともスタイリッシュな交響曲である。やがてやってくる大フーガはこの曲のクライマックスだ。アンサンブルが崩壊しないようにまわりの音に耳を傾ける一方で、自分の持つテクニックを最大限に駆使しなくては様にならない。みんながぶうたれたのも当然だよね、とテューバを構えながら希美は思った。とはいえ、希美はこの曲を気に入っていた。技巧的にはさして困難でもなく、音楽する歓びがあちこちに散りばめられている。最初の取っつきにくさを克服してしまえば、ヒンデミットほど音楽の愉悦を教えてくれる作曲家は、まずいない。楽譜を見るにつけ、作曲家がノリノリでこの曲を書いたことは容易に窺える。さすが、音楽家のために作品を書き続けた人だけある。
 だけど――とテューバを抱え直し、マウスピースを唇にあてて音を出す準備をしながら、希美は眉根を潜めた。今日の上野先生、なんだか変だよ。指揮棒を振り間違えるなんて滅多にない先生が、今日に限って打点を誤ったり、“入り”のサインを出し忘れたりしている。初めての曲ならともかく、《交響曲変ロ調》は先月から手掛けており、もう仕上げの時期にさしかかっている。前回が特に中断もなく熱気あふれる演奏をし得ただけに、今日の上野の様子には部員の誰もがとまどい、演奏への集中をさえぎられてしまっている。この分じゃ、テューバの出番が来る前に空中分解しているだろうなあ。
 だが、空中分解はしなかった。テューバが入る二小節前で、上野が指揮棒を降ろしたからだった。徐々にそれまで音を出していた楽器の響きが消えてゆく。やがて音楽室を気まずい沈黙が包みこんだ。みんなが怪訝な表情で隣の部員と顔を見合わせたり、上野を眺めている。小声で囁きあう者も、中にはいた。
 希美もテューバを抱えたまま、開いた脚の間に生まれたスカートの窪みに置き、力を抜いた。無意識に、ロータリー式のキーを押したり離したりしていた。ふと気づくと視線は左手の薬指に注がれている。昨夜、白井から贈られ、はめてもらった指輪のあったあたりだ。なくしたりしたら大変、と家に置いてきた指輪。途端、希美は自分の顔がにやけてくるのを感じ、ハンカチで口許をおおってうつむいた。
 昨日一日の出来事は、すべて夢ではなかった。抱きしめられたのもキスもプロポーズも。なにもかも一切合財。なかなか寝つけず自慰に耽ったことも。指揮台でしきりに楽譜を指で叩いている上野をぼんやりと見ながら、希美は白井に抱かれている自分を、初体験に臨む自分を、愛されて“少女”から“女”へ変わる儀式に臨む自分を想像し、いつの間にやら全身を熱く火照らせていた。――正樹さん、愛してる。希美は自分の上に覆いかぶさってきた彼の首に腕を絡めて抱きしめた。彼の腕が腰にまわり、希美の上半身は宙に浮かぶ格好となった。長い黒髪が揺れる。白井は希美の乳房と乳房の谷間へ顔を埋め、口づけた。希美、希美、……。
 「――深町さん。深町さん」
 肩を揺さぶられていた。うつろな眼差しでそちらを見た。同じテューバ担当の一年生が心配そうに希美を見ている。「平気ですか? 気分が悪そう……」
 「あ、ごめん。平気だから、心配しないで。ちょっとだけ、ぼおっ、としちゃった」希美は苦笑して答えた。「でも、平気ですか、って上野先生に訊きたいよね」
 二人して譜面をにらめっこしている上野を見やって、気がつかれないようにうつむいてくすくす笑った。希美はそのとき、ショーツの下の部分がじっとりと濡れているのに気がついた。
 でも、どれぐらい時間が経ったんだろう。正樹さんとのこと、想像していたら時間なんてわからなくなっちゃった。腕時計の文字盤を見ると、針は三時になるかならないかの時刻を指している。一分も経っていないのか……それ以上経っているように感じたんだけどな。でもその間、上野先生はずっとああしているわけ? あらあら、まあ。
 「ごめん。――今日はどうも体調が良くないようなんだ。朝から元気づけに牛丼の大盛りをお代わりしたのがまずかったらしい」と笑いを取りながら、上野はいった。「もうここまでにしよう。だいぶ出来あがってきてるよ。あと一、二回の通し稽古で十分だろう。次は、えーと……二十六日だね。本番直前の練習になるからがんばろうな。それじゃ、解散にしよう」
 上野はそういうと、譜面台に広げていた総譜を閉じ、色鉛筆を筆箱にしまった。部員達のざわめきが部室に広まってゆく。楽器を分解して掃除する者がいる一方、メトロノームや空いた譜面台といった備品を、部室と音楽室をつないでいる音楽準備室に片附け始めた。ほとんどの生徒の楽器は個人所有なのでそこには置かれないし、原則的にそれを禁じている。万一に備えてと個人練習の奨励からだ。テューバやユーフォニアム、コントラバスといった大きな楽器については例外を認めているが、希美はよほどのことがあっても自分のテューバは持ち帰っていた。練習云々よりも、それが両親が買ってくれた思い出の楽器でもあるからだった。
 ウォーターポッドに溜まった水分を専用のハンカチで拭っているときだった。希美は誰かのねめつけるような視線が、肌に突き刺さるのを感じた。顔をあげて周囲を見渡してみる。誰もこちらを見ている者はいないし、慌てて視線をそらした風な者もいなかった。赤塚理恵が上野になにか相談するような表情で部室を出てゆくのを、クラリネット・パートの一年生達がこそこそ囁きながら見送っているのが、希美のいるところから見えた。
 気のせいかな。希美は再びテューバの掃除に精を出し始めた。□

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