第2487日目 〈『ザ・ライジング』第4章 7/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 ふーちゃん、もう練習終わってるかな。今日はちゃちゃっとやるだけだから、と笑顔でいっていた藤葉を思い浮かべながら、希美は教室の扉を開いた。
 誰もいない。が、藤葉は既に水泳部の練習を終え、いったんは教室に戻ってきていたようだった。競泳用の水着やゴーグル、バスタオルやらをまとめてぶちこんである水泳部特注のバッグが、机の上に無造作に置かれている。学校が休みの日に練習があるときは、藤葉はいつもそのバッグ一つで通ってくる。身軽な姿が、希美にはいつもまぶしく映った。鞄と学校指定のサブバッグに加えて、いつもテューバケースを抱えて登下校する希美は、そんな藤葉に憧れにも似た眼差しを送ってしまいたくなる。楽器さえなければなあ、と思わないでもなかったが、彼女にとってそれはある面に於いて、いちばん大切なものだった。彩織にせよ藤葉にせよ美緒にせよ、行き帰りが希美と一緒になるときは、鞄やサブバッグを持ってあげたりはあったが、テューバケースを持ってあげようか、と申し出たことはただの一度もなかった。それが希美にとってどれだけ大切で、執着を示しているものであるのか、よくわかっているからだ。いまではテューバケース(と楽器本体)の重さにもすっかり馴れ、それを持ち歩くことに抵抗はなくなった。逆にケースを持たないでいるときの方が、彼女は違和感を感じて不安に陥るほどだった。――しかし、着崩した制服にバッグだけで足取り軽く闊歩する藤葉を見ていると、羨望の溜め息がもれてしまうのだけは、どうしても禁じ得なかった。
 希美は横向きに、引いた椅子へ腰をおろした。足の間にテューバケースを静かに置いた。壁に背中をくっつけて教室を眺め渡す。いつもなら三十四人のかしましくもかまびすしいお喋り声に埋まり、ともすればやや常軌を逸するやかましさに頭痛を催させる教室なのに、こうして休みの日に一人でここに坐り、じっとしているとなんだか別の世界にさまよいこんでしまったような気がしてならない。それまでじっと身を隠して好機を狙っていた邪な者達がゆっくり頭をもたげ、息を潜め、気づかれぬように忍び足で希美の背後に近づいてくるような錯覚さえしてくる。普段馴染んだ教室が、あたかも死の匂いが充満し、鼻をふさいでも逃れ得ぬ場所に変貌したようだった。それは必然として、彼女をして死臭漂う病院を連想させた。思わず眉をしかめ、吐き気を感じた。
 病院と縁のないままに逝った両親は、テロ集団のしかけた爆弾が作動して火を噴いたとき、果たしてなにをしていたのだろう、と希美は考えた。その瞬間、いったいなにを思ったのだろう……。地獄さながらの“グラウンド・ゼロ”で、私を生み育ててくれた二人は苦しまずに済んだのだろうか。
 死者は歌うか? 死者は愛するか?
 生きてこの世にある限り、人は誰もその答えを知ろうとしない。けれども、希美にはおぼろげながらわかっている。死者同士が愛し合うかはともかく、死者も生きとし生けるものを愛する。それはきっと事実に違いない。それ故に死者は想いを残す生者の前に姿を現す。彼岸と此岸の境界線を越えて結びつく想いこそ、おそらくは真実の愛というのかもしれない。……希美はつらつらそんなことを考えながら、ひっそりとした教室のあちらこちらを見渡した。
 たぶん、ふーちゃんは部誌の提出やらなにやらで職員室へ行っているんだろうな。刹那、藤葉の席を見据え、視線を床に落とした。テューバケースを凝視しているうち、だんだん視界がうつろになってきた。涙が出ているわけでもないのにな。□

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