第2488日目 〈『ザ・ライジング』第4章 8/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 そう思って、指の腹で目を拭おうとしたときだった。黒い影が視界の端に現れた。最初は、目にゴミでも入ったかな、という程度しか考えなかったが、その影は徐々にこちらへ近づいてくる。泥を口いっぱいにほおばったようなくぐもった声が聞こえた。だが、それがなんといっているかまではわからない。その声の背後で潮騒の音が耳をついた。わかっていることといえば、なにかが自分に襲いかかってこようとしていることだった。それは密かに爪を研ぎ、牙をむき出しにしてして獲物を狙う野獣の如く、その好機を虎視眈々と窺っている。希美は扉に目を向けた。その向こうからとてつもなく邪悪な目がこちらを見返している。じっと見つめていると、血走った眼球が扉に重なって映るような、そんな恐怖とも不安ともつかないイメージが浮かんだ。なにかが道をやってくる。死者の街道を通って、重い足取りで衣の裾を引きずる影が、少しずつこちらへやってくる。その正体がなんなのか、希美にはもちろんわからなかったけれど、自分に悪意を抱く者であることだけはわかった。
 言い知れぬ不安ばかりが募っていった。心の中に黒い雲が果てしなく広がってゆく。希美は思わず身震いした。そのとき、背にした窓を打つ音がした。短い悲鳴をあげて椅子から腰を浮かし、外の世界を振り返り見た。希美の心の中と呼応したかのように、空には暗雲が何層にも渡って垂れこめていた。薄ら闇の世界が外に広がっている。希美はしばしそこに立ちつくしたまま、外の光景に目を奪われていた。窓に無数の雨粒がくっついている。それは風に嬲られて縦横に筋を残し、外の世界をひずませていた。天気予報では雨は降らない、っていってたのにな……ロッカーに置き傘があるから濡れる心配はないからいいけど。だが、一度生まれた不安はそう簡単に消えてくれそうもない。どうすればほんの一刻でもこの不安とお別れできるんだろう……
 ……一時の気休めかもしれないけれど、と希美は考えて、サブバッグの中の楽譜や教則本、筆記用具を引っかき回した。程なくして目的のものを探し当てた。MDプレーヤーとイヤフォン。中に入っているのはハーモニーエンジェルスでもタンポポでも椎名へきるでもなく、東京スカパラダイスオーケストラでもTOKIOでも桜庭裕一郎でもなかった。昨日、横浜のタワーレコードでずっと聴いてみたかったCDを見つけて早速に購い、楽譜を開きながらダビングしたものだった。レイフ・ヴォーン・ウィリアムスの《テューバ協奏曲》で、演奏は世界初演した面々だった。イヤフォンを耳に当て、プレーヤーの再生ボタンを押そうとした、まさしくその瞬間だった。
 教室の後ろの扉が、ガラリと開いた。あ、ふーちゃんかな。希美は顔をあげた。強い光を真正面から浴びたように目を細め、そちらを見やる。その人物は教室に入ってくるそぶりもなく、両手で開かれた扉を摑んで、とば口に立ったままでいる。彼女は確かに希美を見ている。八景島と最前いまここで見た黒い衣を纏った男の姿が、彼女に重なった。しかし、彼女からよりも、かすんで見える黒い衣の男からの方が、得体の知れぬ恐怖ははるかに強く感じられる。とはいえ、当面の不安の元凶はとば口に立つ、同じ部活の仲間だった。希美は自分の顔に、わずかながらも失望の影が浮かぶのを感じていた。ふーちゃんかと思ったのになあ……。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。