第2489日目 〈『ザ・ライジング』第4章 9/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 赤塚理恵がそこにいた。眉間に二条の筋が刻まれている。澱んで生気のない表情だった。不快ささえ催させられる。まるで飢えた野獣だ。あの眉間の皺がなかったらなあ、と希美は思った。もう少し表情も和らいで、人に好かれもするだろうに。だが、それがきっと無理な相談だろうことは、誰もが知っている。血縁者である理事長や池本先生さえ。赤塚がしなを作って媚びを売る様を想像するのは、限りなく不可能なことだった。よしんばそれができたとしても、背筋を寒気に襲われてその光景を拭い去るのは至難の業となるだろう。まあ、それはそれとしても、いま教室には自分一人しかいない。用事があるにしてもそれが自分にであることは明白だった。無視するわけにはいかないだろう。こうしてこのタイミングで来たからは、部活絡みであるのは間違いない。
 「どうかしたの、赤塚さん?」イヤフォンをはずして、希美は訊いた。
 赤塚はまるでいま初めてそこに希美がいるのに気がついた様子で(誰が見てもあまりに下手すぎる演技だった)、目を大きく見開き、貧相な顔つきをさらにゆがめさせた。本人としては精一杯の努力をしてほほえんでいるつもりだったようだが、却ってそれは見る者を恐怖させた。かつて日本中の子供達を恐怖のどん底に叩きこんだ、テレビ局も大まじめに特集を組んだという口裂け女のようだった。もちろん、希美はその時代を知る者ではなかったが、都市伝説と化していまも生き続ける口裂け女の想像図は、雑誌やテレヴィで幾度となく目にし、両親からも二度ばかり聞いていた(その晩は、泊まりに来ていた彩織と一緒に真夏の寝苦しい夜にもかかわらず、固く抱き合って一つ布団の中で過ごした)。いま眼前に立つ赤塚の姿は、その想像図に瓜二つとしか他にいいようがない。
 「よかったあ。深町さん、まだいてくれた」と赤塚はいった。幾分顔が和らいだ感じがした。声にも心底からの安堵が窺える。
 きょとんとした表情で希美は訊いた。「え、どうかした? 部活のこと?」
 「うん」と赤塚は首を縦に振った。「上野先生がね、なんだか話があるんだって。これから部長と副部長を呼びに行かなきゃいけないんだ。あと、マネージャーも。嫌ンなっちゃうよ。私はあんたの使いっ走りじゃない、っての」
 私に? 左の人差し指を自分に向けて、希美は目でそう問うた。即座に赤塚が頷いた。小首を傾げて希美は、話っていったいなんだろうな、たぶん特別演奏会のことだろうけれど……、とつらつら考えた。だが、ここで考えていても仕方がないや、と思い直し、腰をあげた。
 「そう。じゃあ、行かなきゃね。あ、先生、どこにいるって?」
 「部室。講師控え室はなんだかふさがっているんだってさ」と赤塚はいった。
 やだな、部室でか。もうすぐふーちゃん、戻ってくるかもしれないのに……。いいや、メールを送っておこう。でもなあ、と希美は独りごちた。最近先生は私の方を、よく見ているような気がする。なんていうか、いやらしい目で見られているような気が、確かにする。あんまり部活と授業以外では会いたくないけれど、呼び出された以上は仕方がない、行かなくては。それに、自分の他にも呼び出されている人がいるなら安全だろう。
 なぜだか不安が絶え間なく襲いかかってくる。その源が赤塚か上野のいずれかであろうことは、おぼろげながらも察せられた。でも、この不安はいったいなにを私に知らせようとしているのだろう。そこまでわかっていながら、危険を承知で火の中へ飛びこむのは自殺行為に思えた。しかし、自分と直接に関わる人からの呼び出しとあっては、無視するわけにもいかなかった。あ~あ、明日は楽しみにしているクリスマス・イヴだっていうのになあ。内心でそう愚痴りながら、希美は席を離れた。
 「赤塚さんはどうするの?」廊下の壁に背中をつけて立っている赤塚に、そう希美は訊いてみた。「先生、赤塚さんにも話があるって?」
 「まさか!」両掌を希美の方へ見せてひらひら振ってみせながら、赤塚理恵が小さく笑ってそういった。「メンバーがメンバーじゃない。私のようなダメダメ部員はお呼びじゃないよ。さっきだって叱られちゃったしね」
 「叱られた?」
 「ううん、なんでもない。下手なのは本当だし。――さ、早く行った方がいいよ。なんだか先生、このあと用事があるらしいから。あ、私も早く呼びに行かなくちゃ」
 じゃあね、と手を振って赤塚は踵を返し、小走りに立ち去った。
 希美はその後ろ姿を見送ると扉を閉め、六階にある部室へと足を向けた。
 もしそのとき、階段を昇りながらでもいまいた廊下を見ていたならば、きっと希美はそれが罠だということを察知していただろう。赤塚が小さく振り返り振り返りしながらこちらを見、薄気味悪い笑みを浮かべていたからだ。
 雨はだんだん激しく降りつけてきていた。□

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