第2493日目 〈『ザ・ライジング』第4章 13/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 希美は開けた扉を後ろ手に閉め、その場に立ち尽くした。誰もいなかった。部室はまさしくもぬけの殻。練習が終わって片附けられた小一時間前と同じ状態を保っている。自分を除けば命ある者の姿は、ここにはない。だが、気配はかすかに感じられる。香水の残り香のように、空気中をほのかに漂っている。おまけに、言い知れぬ不穏な気配までが。いや、そんな生易しいものではない。部屋の隅の方から凶々しさと邪悪な匂いが、希美の方へ見えない手を伸ばして忍び寄ってくる。
 誰かいるのはわかっている。誰がいるかもわかっている。だって私はその人に呼び出されたんだもの。が、一緒に呼ばれたはずの面々の姿も見えない。隠れるところなんてどこにもない。ただ一ヶ所、楽器や楽譜を保管している音楽準備室以外は、どこにも。そこの扉も今は閉ざされている。だのに、人の気配はもはや否定のしようがないほど濃く、あたりをうごめいている。
 途端、希美の背中を冷たいものが走り抜けていった。
 逃げるのよっ!! 自分の内なる《声》がすぐ耳許で響いた。息を大きく呑みこみ、踵を返して扉を開こうとした。しかし、扉は開かない。二、三センチの隙間が生まれてわずかに傾くものの、希美一人が通れるぐらいの空間は作られなかった。向こう側から誰かがつっかい棒でも渡しているようだった。どれだけ力をこめてみても、扉は頑として動く様子がない。教室のように両開きの扉だったら、どうにかしてここから脱出できるのに。二枚のうちどちらか一枚を動かすためのレールが、必ず内側にある。内側にある扉ならば、外から閉じこめるのは無理な話だろう。けれど、部室の扉は片側にしかなく、しかもレールは外にある。誰かを閉じこめようと思えばわけのない造作だった。
 希美は額に浮かんだ脂汗を拭うこともなく、扉の磨りガラスにぼんやりと移る影の主に向かって叫んだ。その者が自分を閉じこめているのは、もはや明白な事実だった。けれども、彼女にはどれだけ考えてみても、自分がこうした仕打ちを受けなくてはならない理由が思い当たらなかった。
 「ねえ、ここを開けてよ! そこにいるんでしょ!? 聞こえてるの? 誰か、ここを開けてえええっ!!」
 そのとき背後で、がたん、と扉の開く音がした。希美の動きが止まる。たちまち全身から力が抜けていった。ゆっくりと血の気が引いてゆく。さっき感じた不穏な空気の主が、足音もなく徐々に忍び寄ってきた。くすくすと笑い声が耳に届いた。総毛立たせるほど不気味な笑い声だった。机と机の間を、一歩一歩確かめるような足取りで希美の方へやってくる。殺意こそ感じられないものの、危害を加える準備を整えた何者かが、ゆっくりと道をやってくる。
 「無駄だよ。やめておけ」
 聞き馴染んだ声が、足音がやむと同時に話しかけてきた。二人では会いたくないと思っていた人物の声だった。
 怯えた表情を隠そうともせず、希美はそちらを振り向いた。恐怖と恐慌が一時に襲いかかり、全身が総毛立った。まるで素肌にセーターを着たときのようなチクチクした感覚が思い出された。心拍数は上昇し、心臓が激しく鐘を打つ。とはいっても、昨日白井と一緒にいたとき感じたようなものでは、まったくなかった。危機に直面したときにだけ感じる類のそれだった。
 呼吸の乱れたままで後ろを見やると、椅子にどっかり腰をおろした上野の姿が目に飛びこんできた。希美を見る彼の瞳からは輝きも色も失われ、水の流れがすっかり堰き止められたように澱んでいた。じっと見ていると、こちらの心をかき乱されるような気がした。が、まるで吸い寄せられて離れられなくなってしまったかの如く、希美は上野から視線をはずすことができなかった。彼女は背中を扉にぴったりとつけ、お腹の前で両手を固く結んだ。ぎこちなく首を横に左右に振り、口をぱくぱく開いては閉じた。悲鳴をあげるにも気が動転して、それどころではなかったのである。□

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