第2499日目 〈『ザ・ライジング』第4章 19/46〉 [小説 ザ・ライジング]

 上野を送り出すと池本はすぐに身支度を整え、教職員用の駐車場がある地下まで一気に階段を駆けおりた。車は片手で数える程度の数しか停まっていない。彼女のアウディは出入り口から十メートルぐらい離れたところの、柱の影に駐車してあった。この学校に赴任してからずっと、そこが池本の駐車場所として割り当てられている。勢いこんでシートに腰を落とすと息つく間もなくエンジンをスタートさせ、タイヤの摩擦する音を響かせて、駐車場を出て行った。
 学園から一キロほど北上したところに、東名高速道路の沼津インターがある。いま、池本は通行券を受け取って、高速に入ったところだった。時間と時期のせいか、東京方面へ向かう車は少ない。トラックがところどころで列をなし、観光バスがまばらに点在し、その間を普通車が間隔を開けて走っていた。
 車を購入する際に、それまで付いていた標準装備のものをはずして、新しく付けたセパレート式のカーオーディオに指を伸ばす。前後のボードに埋めこまれたスピーカーから、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』序曲が流れてきた。ほの暗く陰鬱な旋律だった。陵辱と殺人の宴にはなんとふさわしいことであったか。池本の口許に笑みが広がった。あの恋人達の短い春の終わりにはぴったりの曲じゃないか、そう池本は口の中で呟いた。
 あと一時間もあれば、彼のアパートに着けるだろう。時計を見ると、針は五時を指していた。大丈夫だ。探偵社を使って調べさせたこの一ヶ月のスケジュールは、深町希美と会う日、及び大学へ行く日を別にすれば、ほぼ同じような毎日だった。藤沢の学習塾のバイトが終わるのが、確か五時。塾を出るのが五時半過ぎ。それから一時間半ぐらいで彼は帰ってくる。駅前で買い物をする日もあったが、今日、月曜日は特売があるわけでもないらしく、どこへも寄らずに帰ることが多かった。いずれにせよ、自分の方が早く到着するのは間違いない。早めについて、最後の心の準備をしておくのはいいことだ。
 〈大井松田IC 30Km〉左手に見える緑色した表示板に白抜き文字で書かれているのに目をやった池本は、再び微笑した。大井松田で降りたら国道二五五号線に入ってひたすら南下、小田原城からさして離れていないところでぶつかった国道一号線を、今度は静岡方面へたどってゆけば、一キロ走るか走らないかというぐらいで白井の住むアパートだった。
 もうすぐよ、白井さん。池本は口の中で呟いた。もうすぐ私達のショータイムの始まりよ。

 白井は小田原駅の改札をくぐってから、駅前のデパート地下で夕飯の買い物をしてゆくか少し悩んだが、一昨日近所のスーパーであれやこれや買いこんだ食料品のあるのを思い出し、そのままバスロータリーへと歩を進めた。ちょうど自分が乗るバスが、乗車場所に停まっていた。バスの中は、帰宅する人々でだいぶ混んでいた。白井は一渡り車内を眺め渡してみたが、坐れそうもないので、降車口に近いところで吊革に摑まった。彼が乗りこんで一分ばかりして、バスは扉を閉めて鈍いエンジン音を立てながら、ロータリーをあとにした。
 結局のところ、昨夜はあまりものうれしさと興奮に寝つけず、本を読んでいても目は冴えてゆく一方で、手淫に耽ってもますます希美の笑顔はより鮮明となり、冷蔵庫から泡盛を持ち出して三杯、四杯と盃――コップだったが――を重ね、空が白みだした午前五時過ぎになってようやく眠りに落ちていった。
 バスに揺られて窓の外をゆっくりと後ろへ流れてゆく風景を眺めながら、ぼんやりと白井は希美のことを考えていた。見るもの聞くもののほとんどすべてが、なぜか希美を想起させる。自分と希美が共に歩いて買い物をしたり、なにを話すでもなく並んで歩く光景が、街角のあちらこちらで見られた。それはいつの間にか、二人が子供を中にして買い物をする姿に取って変わった。絵に描いたような平凡な家族だが、それは世界の誰よりも幸福な家族の姿でもあった。
 いつの日か、と白井は考えた。いつの日か、希美ちゃんと結婚したら、旬日経ぬうちにあんな家庭を築くことになるんだろうな、と。彼はいろいろ想像をめぐらせてみた。婚約したことではるかに現実的となった自分達の将来。学校での授業が終わって家に帰れば、希美が、お帰りなさい、と出迎えて手料理でその日一日の疲れを癒してくれる。休日の昼間は海辺を散歩し、砂浜に坐りこんで沈む夕陽を眺めたり、時には箱根や伊豆まで足を伸ばして、食事したり温泉に入ったり。夜には……まあ、愛の交歓と子作りに励む。ううむ、と白井は唸った(隣に立っていた買い物帰りの主婦に訝しげな目を向けられたが、彼はつとめてそれを無視した)。希美ちゃん、僕と同じ年齢になるころには、いったい何人の子供の母親になっているんだろうな。はあ……養っていけるのかな、とすこぶる疑問も湧いてきた。仕事、がんばるしかないな、という結論しか彼には出せなかった。□

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