第2785日目 〈部屋のお掃除;『万葉集』発掘編。〉 [日々の思い・独り言]

 時間を縫っての部屋の掃除が続いております。動かせるところは概ね済ませたので、隙間を埋めるような些末な作業に留まっているのが、なんとも隔靴掻痒というところであるけれど……
 こんな現象に見舞われている──思いがけぬ場所から思いがけぬ本や書き物が出てきたり、在るとわかっていながらホコリや他の書籍に阻まれていた本をようやっと取り出せたり……、と。
 前者を代表させるのは、やはり1980年代後半から1990年代後半まで、10年超にわたって書き散らしたエッセイや論文、小説のメモ・断章などだ。日常記録や物思いのあれこれを擬古文で書き綴り続けたレポート用紙116枚よりなる随想は、発見をなによりも落涙随喜した作物である。てっきり火事の際、処分してしまったものと思うておったから、感慨は一入。否、その程度の言葉ではとうてい足りぬ。しばし読み耽って自分が夕飯当番なのをうっかり忘れかけたことは当面、キミとボクとの秘密にしておこう。
 一方、後者の代表といえるのが、つい先程棚の奥から引っ張り出してきた、日本古典文学全集版『万葉集』全4巻(集英社)。第1巻の箱だけやたらと綺麗なのは、それが学生時代のテキストで学校の図書室にて購ったためと思しい。残り3冊は神保町の古書店で購入した──記憶が曖昧だけれど、たしか白山通り沿いの店にて1冊ずつ買ったのではなかったか。
 日本古典文学全集は判型こそ岩波の大系と同じで函入り月報ありな点も然りだが、ビニールのクロスカバーが掛かっているところにわたくしは愛着を感じている。けっして推奨される環境での保管ではなかった架蔵の『万葉集』だが、まるで刊行当時に新刊で購入したと同じような美麗かつ破れ汚れなく、その気になれば頬ずりさえできるが(やらないけどさ)、新刊書店で大系本を購入しても破れシワの問題が付きまとったパラフィン紙よりは、ずっと良い。勿論、美麗なカバーが掛けられた全集本を架蔵しているからこその発言であるのは承知している。
 が、大系本にパラフィン紙が掛けられていようといまいと、それが購入の判断材料になることはないのに較べ、殊全集本に関しては可能な限り件のビニールカバーがあってほしい。同じ巻でカバーのあるものとないものがあれば、売価に多少の差があろうとわたくしはカバーがある方を選んで買う。むろん、月報が付され、本体も状態が良いならば、という前提は譲れないが。とはいえ、そこには、全集本は帯がなくても構わないけれど、大系本は帯が付いているのが望ましい、という逆転現象も生じることを忘れてはならない。
 さて、次に発掘の標的となるのは、廊下に積みあげられた7箱のダンボール箱である。これは火事のあった当時、某倉庫会社に預けていたのを自宅新築後に取り出してきたものだが、ここにはたしか秋成がアダンで作られた筆を使っていた旨研究した本や、大和岩雄の『古事記』偽書論が入っているが、たぶんそうした専門書の類よりも多い数の雑本が仕舞いこまれているはず。実際のところは勿論、開梱してみないとわからない。いうなれば件の7箱はなにが出てくるかわからないという意味で、パンドラの箱とも欲張りじいさんが選んだ大きな葛籠ともいえる代物だ。
 ──実は今日(昨日ですか)、ニトリに行ってきたんです。そうして思ったんです。早く部屋を片附けて居心地の良い、読書スペースを片隅に設けた空間を創らなくっちゃな、と(取り出す本が増えればその分、かの空間の完成の日は遠のくという事実は、ちょっと棚にあげて忘れることとする)。あちこち採寸して、できるところから手を着けていくのですが、ああ、いったい完成までにどれだけのお金が掛かるんでしょうね?◆

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