第2866日目 〈ただ愉しみのためにだけ、ミステリ小説を読もう。〉 [日々の思い・独り言]

 高校生の頃、ジェイムズ・ヒルトン『チップス先生、さようなら』(新潮文庫)を読んだ。図書室で借りたあとお小遣いをやり繰りして購入、その後幾度と読み返していまも書架の目立つ位置に置いてある、思い出の1冊である。随分とこの作家を気に入ったのだろう、高校を卒業するまでに『失われた地平線』『鎧なき騎士』『学校の殺人』を立てつづけに読んでしまった。これらはいずれも学校の図書室にあった。感謝。
 その『チップス先生、さようなら』の開幕間もなく、先生の人物を紹介するに際して作者は、間借りしている部屋の描写をして本棚にクローズアップしたとき、いちばん下の棚にソーンダイクなどの探偵小説の廉価版がぎっしり詰まっていて、先生は時々このような小説を読んで愉しんでいた、と書く。その光景は瞬く間に己の脳裏へ、これ以上ないぐらい鮮明な映像となって焼きつき、ふとした拍子(たとえば書架の片附けなど行っているとき)に記憶の底からよみがえる。
 つい先日、何年振りかで読み返した。件のページへ差しかかると、ああ、と嗟嘆してしまったのである。置き場所はともかくとして、先生の探偵小説への接し方と、自分のミステリ小説への接し方は、とってもよく似ているな、と、感じたのだ(不遜ないい方で恐縮だが)。
 小学生の頃からミステリ小説には親しんできた。当時特に熱中して現在までその様子が変わらない対象はホームズであり、じつはルパンにあまり関心がなく、少年探偵団は1作も読まずに成長してきたことは、別に書いたことがある。
 が、どれだけたくさんの作品に触れて中毒患者を自覚しながら次から次へと読み、どれだけ特定の作家へ惚れこみ舐めるように読み漁り、雑誌や書評集或いは評論など読み耽ってみても、他のジャンルのように筋の通った読み方はできず、専らミステリ小説へ主軸を置いた文章を執筆する者ではない、と自覚している。
 なにかしらの目的意識の下に量を読み、体系化するようなジャンルではなかったのだ。わたくしにとってミステリ小説は、愉悦の域を超えるものでは決してない。評論をぶち、論究に耽るタイプでは、なかったのだ。
 わたくしはミステリ小説について<なにか>を発言できる側になりたかったのだ、それが自分の手に余り、思考もそのようにできていないことを棚にあげて、どうにかして<読者>の側から<研究者>の側へシフトしたかったのだ。でも、それは所詮見果てぬ夢で、自分の力をこの年齢になっても正確に把握できなかったわたくしの未熟を露呈しただけの話である。いや、お恥ずかしい。
 しっかりとそれを自覚してしばらく経つけれど、以来ミステリ小説は純粋に<ナイトキャップ>の役目を果たしている。ミステリは文学か、然り文学であるべきだ、なんて論争が昔あったようだが、正直なところどうでもいい話だ。扱われる事件や謎がどうあれ、それが何歳になっても胸をワクワクドキドキさせてくれさえすれば、構わない。
 最近は東川篤哉『謎解きはディナーのあとで』第3巻を、欠伸が止まらなくなり、目蓋が重くなってくるまで読み耽るのが、寝しなの愉しみである。翌日の勤務に差し支えないように、そも朝ちゃんと起きられるように、とセーブしなくてはならないのが悩みだけれど、まぁ、仕方ありませんね。面白いんだもの
 ミステリ小説を愉しんで読めなくなったら、わたくしは潔くこのジャンルの読者であることをやめるよ。◆

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