第2883日目 〈太宰治『新ハムレット』/「女の決闘」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 「女の決闘」はヘルベルト・オイレンベルグ作森鷗外訳の同名短編にインスパイアされた、太宰文学のなかでも最大級の野心作、実験作であります。さいしょに読んだときはどこまでが鷗外の翻訳でどこから太宰の創作なのかわからなかったり、またそれゆえの読みづらさに惑わされてその価値もわからなかったのだけれど、2回目の読書の前に幸いと県立図書館で自分が生まれた頃に刊行されていた『鷗外全集』の掲載巻を借り出せたのでそちらを読んだあとで改めて太宰の方を読んでみたら、そのアヴァンギャルドさ、そのテクニカルさに、文字通りぶっ飛んでしまった。諸家が本作に寄せる讃辞も、いまなら納得であります。
 鷗外が訳したオイレンベルグの小説は現在、『鷗外全集』第9巻(岩波書店 昭和47/1972年7月)に載る。太宰が執筆に際して「よそから借りて来た」(P34)『鷗外全集』は、おそらく昭和11年から岩波書店から刊行が始まった版でありましょうか。これは同年から「著作編」が、昭和13年から「翻訳編」が刊行されており、太宰はこの全集の第16巻を自身の「女の決闘」執筆に際して用いたのかもしれません。わたくしはこのときの『鷗外全集』を未見なので、早く調査したいのだけれど、頼みの図書館が新型コロナウィルスの影響で門戸を閉ざしている関係から未だ果たせないでいる。
 オイレンベルグの原作の粗筋だけ、ここで慌てて述べておこうと思う;舞台はロシア、登場人物は医大に通う女子大生と、彼女に夫を寝取られた細君。この細君が女子大生に手紙を出して曰く、わたしはあなたに与えられた苦痛と侮辱のゆえにあなたに決闘を申しこみます、ついては明日十時に拳銃持参で某停車場へ来られたし、立会人は不要、あなたが寝取った男にこのことを知らせる必要なし、と。細君は手紙投函後、拳銃を購い射撃練習し、いよいよ当日を迎える。停車場からすこし離れた野原で2人は互いに撃ち合い、女子大生は弾にあたって絶命。細君はその足で村役場へ行き、逮捕されてやがて獄中で死んだ。──筋はこんな風である。
 太宰の「女の決闘」は全6回、「一回十五枚ずつで、六回だけ、私がやってみることにします」(P34)と書き出されれて始まる。そもこの小説の特徴は、「構成の投げやりな点」(P43)に満足していない太宰が、まるで描写されることなき人物にスポットをあてて、全体の結構を整えようという実作者ならではの補作を試みたところにある。それがだんだんと作者の心理に分け入り、作者と物語のかかわりようについて憶測してみるあたりから太宰による補作のパートが入りこんできます。それは第2回で事前告知され(「そろそろ、この辺から私(DAZAI)の小説になりかけて居りますから、読者も用心していて下さい」P49、「次回から私(DAZAI)のばかな空想も聞いていただきたく思います」P53)、第3回冒頭からいよいよ太宰版「女の決闘」が本格始動を始める──。
 オイレンベルグの原作では、上の粗筋をご覧いただければご推察いただけようが、描写は夫を寝取られた細君の側からのみされており、女子大生や、元凶たる夫のことにはついぞ触れられていないのであります。太宰はここに着目して、解説したり想像したりしながら、遂にかれらの側から物語を語り始めるようになる。実はこの手法、小説の実作者であれば肌身でお感じいただけようが殊更難しい技法で、自分の技術を稚拙さを図らずも世間に曝すだけの結果になりかねぬ、或る意味で太宰だからこそ可能だったテクニックなのであります。よく太宰の文章は模倣しやすそうでじつはまったく真似できない唯一無二の文章である、といいますが、それは小説のスタイルやテクニックに於いても同じことがいえるのであります。それを如実に示す好例が、この「女の決闘」なのであります。
 太宰が補作したパートがどのような仕上がりになっているか、それは是非読者諸兄がご自身の目で確かめてほしい、と思います。いみじくも太宰が『鷗外全集』第16巻を指して、「さまざまの傑作あり、宝石箱のようなものであって、まだ読まぬ人は、大急ぎで本屋に駈けつけ買うがよい、一度読んだ人は、二度読むがよい。二度読んだ人は、三度読むがよい。買うのがいやなら、借りるがよい」(P40)というのと同じ気持ちで、わたくしは読者諸兄に斯く申しあげるのです。けっして手を抜いているのではない。疑っちゃあいけない。
 「この私の「女の決闘」をお読みになって、原作の、女房、女学生、亭主の三人の思いが、原作に在るよりも、もっと身近かに生臭く共感せられたら、成功であります。果たして成功しているかどうか、それは読者諸君が、各々おきめになって下さい」(P100)とは、太宰の弁。いうまでもなく、照れ隠しである。この小説に於いて太宰は秘かに自負して恃むものがあったはずであります。「果たして成功しているか、各々で決めてほしい」なんて台詞、余程自信がなくっちゃ吐けませんよ。
 最後に。ちょっとわかりにくい部分もあるので、鷗外訳「女の決闘」が太宰版「女の決闘」ではどの部分に該当するか、手持ちの新潮文庫、平成21年9月15日第41版(同年4月に第40版改版)を基にして、余計な口出しではあるけれど、書き出しておきましょう。むろん、わたくし自身の備忘を兼ねて、割合としてはそちらの方が重きをなすことはいうまでもありません。凡例;「Ll」(ラージ・エル、スモール・エル)は最後から数えて何行目、の意味で用います。
 P43 l 5 〜 P44 Ll 22、
 P45 Ll 5 〜 P47 Ll 3、
 P53 l 8 〜 P54 Ll 3、
 P63 Ll 1 〜 P64 Ll 5、
 P72 l 5 〜 P75 Ll 1、
 P77 Ll 1 〜 P80 l 2、
 P89 l 1 〜 P93 l 3(冒頭「──」、鷗外訳になし)。以上。
 ああ、『鷗外全集』が欲しい……。
 なお、始めから記さぬは決めていたことだが、やはり気分が落ち着かないので、別稿を立てて、分量的にはほんとうに短い文章になるけれど、「古典風」と「乞食学生」についても触れることにしましょう。いつ? わかりません。(to be continued.)□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。