第2884日目 〈太宰治『新ハムレット』/「新ハムレット」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 太宰治『新ハムレット』所収「新ハムレット」を、土日と月曜の午前で読了。あまりに大きな作品(あらゆる意味で、あらゆる面で)ゆえ、感想の言葉はそう易々と出てこない。斯様なことはあったとしても一つだけでも絞り出すとすればそれは、『斜陽』とか『人間失格』とかではなくこの「新ハムレット」で太宰の名は歴史に刻まれ、その文学を語られてゆくべきではないのか、ということ。
 一筋縄ではゆかぬ、シェイクスピアの原点と趣をかなり異にする長編。聞けばこれは、太宰にとって初めての書き下ろし長編小説である由。雑誌連載に頼らず締め切りや一回の分量などに煩わされることなく伸び伸びと、思うがままに書けたのではないか、と邪推する。
 初読の時点ではまったく歯が立たぬ奇態の作、二読三読と回を重ねて絶え間なき再読を繰り返してようやく、本作のほんとうの姿に対することができたように思う。ほら、わたくしは読むのが遅いのに加えて、理解の進捗が遅いから。
 「沙翁の『ハムレット』と比較してみると、なお、面白い発見をするかも知れない」、太宰は「はしがき」にてそう記す(P174-5)。──そうね、ハムレットは狂気を装うこともないし、オフィーリアも死んだりしないもの。逆にいえば、古典や古伝説を基にしたときの太宰の想像力の奔放さを確認する、格好の材料となる。また、そんな自由自在ぶりが作品のなかに本音や意見を塗りこみやすくする土壌になるのか。
 これは、『ハムレット』に衣を借りた、太宰の思想小説である。ほんとうに良心を持って、情熱をぶちこめる仕事は、田舎の小学校の先生か小説家しかない、とは「乞食学生」での語り手の台詞(P127)。小学校の先生がどうかはともかく、小説家については太宰は本心からそう思うていたに相違ない。人間としての、家庭人としての、作家としての、およそあらゆるすべての思いを放りこみ、登場人物の口から語らせて、一種の信仰告白を図った雄編といえよう。「雄」は「勇」と置き換えることもまた可能だ。
 反戦、嫌戦を謳い、軍部批判と映る箇所も多いため時局を考えれば、いつ当局による検閲削除、出版禁止などの処分対象になっても可笑しくない作品である。が、年譜等を辿っても斯様な事実はない様子。幸いである。
 ──「新ハムレット」なんて、どこが面白いのだろう。どうして皆からの評価等しく高いのだろう。そんな風だったから、作品5編を収める『新ハムレット』を読むのは正直、億劫だった。この<太宰治読書マラソン>を開始した当時はまだ、沙翁の『ハムレット』は最後まで読んだことなかったからなぁ(要所だけ摘まみ読みして、他の場面は華麗にすっ飛ばしたのだ)。それだけに後回し、後回しにして、気附けばもはや読むを避けられぬ状況となっており。そうしていざ読み始め、読み終えてみれば、「なんと凄い作品だっ!」と偽りなく叫ぶに躊躇いなし。
 なお後半、オフィリアとの会話の場面にて、ハムレット曰く「パウロが言っていますよ。われ、女の、教うる事と、男の上に権を執る事を許さず、ただ静かにすべし、とね。そうして、女もし慎みと信仰と愛と潔きとに居らば、子を産む事に因りて救わるべし、と言い結んである」(P342)と。これはパウロ書簡の一、「テモテへの手紙 一」第2章第12節並びに第15節にある言葉だ。太宰の引用は勿論、文語訳に拠る。これを註記して、筆を擱く。(to be continued.)□

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