第2900日目 〈ゴーゴリ『外套・鼻』(平井肇・訳)を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 高2のGWであったか、祖父が遺した世界文学全集の不揃いを見附けて、その後の数ヶ月を読み耽って過ごしたのは。
 河出書房(新社にあらず)のグリーン版全集は造本も良く、手頃な大きさで、解説と年譜が充実した、訳者も月報寄稿者も一流どころが並んだ素晴らしい文学全集であった。わたくしが横田瑞穂の訳でゴーゴリ「外套」を読んだのは、このグリーン版全集に於いてであった。そうして此度はドストエフスキー読書の中休みというか予習というかで手にしたのが岩波文庫の、平井肇・訳『外套・鼻』である。学生時代、ロシア文学のゼミで読んだような気もするのだが、いずれにせよ本が手許になかったのは事実ゆえ、職場近くの本屋さんで買い直し。
 ──斯くして感想を認めるに至る。
 果たして本作は、古典や名作と様々謳われてきた本作は、ではロシア文学史に如何なる位置を占めるか。「わたしたちは皆、ゴーゴリの『外套』から生まれた」と本当にドストエフスキーがいうたかはともかくとして、元来無意識にあったロシア文学の特質、傾向が、「外套」によって表面化し、人々の意識へ訴えかけ、以後のロシア文学の方向を決定附けることになったのは間違いあるまい。いわばロシア近代文学の原点、出発点となったのがこの、ゴーゴリが1840年に発表した「外套」なのだ。
 いまもむかしも「外套」は、淋しく哀しく、またたまらなく愛おしい作品である。
 とはいえ、淋しく哀しいのはいまとむかしでは質が異なることを白状せねばなるまい。学生時代に読んだときは、ずっと観念的で浪漫的な気持ちで読んでいた。主人公の食うや食わずの生活やかれを突然見舞った災厄に触れて抱いた淋しさや哀しみは、敢えていうならば舞台の上で演じられる芝居に胸打たれて襲い来たった漣のような感情であった。絵空事であるのをじゅうぶん承知して、それでもなおステージ上での演技に感動して終演後は喝采を送るような感情の揺らぎであった。
 ならば、いまは? ここに描かれるすべてに共感できる。
 出世の見こめぬ九等官という官等に甘んじて十年一日の如く一ツ仕事に日を送り、その職場にあっては<見えない人間>のように扱われるか或いはからかいのターゲットぐらいでしかなく、愉しみはといえば毎晩持ち帰る書類の浄書──しかも仕事で持ち帰った書類ではない。単に高名の人物に宛てられた文書であるから、とか、その書体筆跡に麗しいものを感じるから、という程度の理由で持ち帰ったに過ぎぬ──と翌日はどんな書類を書き写す仕事が待っているのだろう、胸ときめかせながら就寝すること。そうしてボロキレ同然になるまで1着の外套を着続けなくてはならぬ程貧に窮し、わずかの給金もあらかじめ使途が決められており贅沢はおろか1つとして無駄無用の出費は慎まなくてはならず、為、遂に外套を新調せねばならなくなった際はどうにか修繕で済ませられないか仕立屋相手に必死の抵抗を試みるのだ。挙句に仕立てられた外套をかれはとってもとっても大切にし、まるで宝物のように扱うのだけれど、それゆえに夜更けの広場で外套を剥ぎ盗られると半狂乱になり、あまりものショックから頓死し亡霊と化してペテルブルグの街行く人々の前に現れ消えるに至る結末までわたくしは、共感しか覚えることが出来なかった。
 学生時代と現在の間に厳然として存在する約30年という歳月と経験が斯く思わしむるのだ。正直なところを告白すれば、わたくしはこれまでロシア文学を読んでその人物へ真に共感し、自分を重ね合わせるまでに愛おしむような存在に出会うたことが殆ど、ない。その数少ないケースが本作の主人公、アカーキイ・アカーキエヴィッチである。かれを取り巻く環境、為人、経済事情、生活を切り詰めてまで手に入れた生活必需品を大切にする気持ち、それが失われたときのショックと悲しみ、死して後まで<それ>に執して夜の街を彷徨うその姿と心情、いずれも自分が経験してわが身わが心にしっかりと刻みこまれて拭い去ること能わざることばかりだ(もっとも、まだ死だけは経験できていないが)。もし、自分に近しい文学上のキャラクターを映し出す魔法の鏡があるならば、その前に立つわたくしを映して鏡が見せるのは──すくなくとも幾人かの候補の1人にアカーキイ・アカーキエヴィッチがいるのは想像に難くない。
 ──「外套」にかまけて併収のもう1編、「鼻」についてはなにも触れることができなかった。独立させたり、他のゴーゴリ作品の感想と一緒にするか迷うたが、そもそんな機会があるのかわれながら甚だ疑問であるから、この文章の片隅に綴らせてもらう。
 「鼻」は奇天烈な小説だ。発表された当時(1836年)としては相当新しかったのだろうな、と推察できる。「外套」がロシア・リアリズムの嚆矢とするならば、この「鼻」は奇想と笑劇というロシア文学もう1つの潮流を確立させた前衛作品といえないだろうか。
 しかしわたくしは、この小説を読んで腹を抱えて笑い転げたのだ。或る日突然所有者コワリョフ氏にお暇告げて家出(?)した<鼻>をめぐるドタバタ喜劇──スラップスティック・コメディとして読んだからだ(気塞ぎの折など良き心の清涼剤となるに相違ない)。殊八等官コワリョフの目の前で着飾った<鼻>が颯爽と馬車から降り来たる場面、伽藍の堂内で礼拝する鼻にコワリョフがおそるおそる話しかける場面、想像するたび吹き出してしまう。
 <鼻>は或る朝突然本来の所有者たる八等官コワリョフの許を去り、街のあちこちをほっつき歩いてコワリョフをきりきり舞いさせた挙句ふたたび或る朝ひょっこりコワリョフの顔に戻ってきた。察するにきっと<鼻>は、コワリョフの所有物としてあちこち帯同させられることを潔しとせず、神様にずっと束の間の自由を願い続けていたところが思いがけなく実現したことでここは一つ物見遊山と洒落こんでペテルブルグの街を散歩して回っていたのだろう。
 今年コロナ禍で自宅に在ることを余儀なくされていた時分、久しぶりに件の世界文学全集を引っ張り出して偶さかゴーゴリの巻へ手を伸ばして横田瑞穂の訳で「外套」を読んだ。そうしてもっとコンパクトな文庫で本作を読みたいと望み、平井肇の翻訳を持ち歩き時間あるたび開いて過ごした。その結果、ゴーゴリ作平井肇訳『外套・鼻』(岩波文庫)は、2020年の夏に見附けた惜愛の1冊になったことを最後にご報告したい。本稿はそのささやかな産物である。◆

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