第2918日目 〈池上彰『学び続ける力』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 <講談社現代新書・池上彰三部作プラス・ワン>のプラス・ワンにあたるのが、本書『学び続ける力』である。テーマは、「基礎教養を身に付けることの大切さ、その有用性」だ。しかし、いわゆる教養論ではない。
 「(書き終わってみると)勉強することの意味や、学び続けることの意味について考える本になりました。教養についての真髄を探ったり、その本質をえぐったりする本、というのは、私にはどうもそぐわないようです。できるだけ、自分がしてきたこと、学んできたことの延長で、背伸びをせずに、お話したつもりです」(P184)
 池上さんは正直である。「背伸びをせず」というのはまさにその通りで、本書のどこを繙いても浮き足立った、理論優先実態不在の意見は見当たらない。これは凄いことだ。本書で様々述べられる教養についての考察はいずれも、池上さんが自分のなかに蓄えられた経験に基づいたことばかりなのだ。
 この類の本にはたいがい1箇所ぐらい、空疎な意見が混じっているものだが、『学び続ける力』にはそれがない。皆無というわけではないけれど、それはあくまで意見の相違というレヴェルに留まる。そこを不満に思う衆もあろうが、まぁ万人から讃辞のみを以て受けいられる本なんて、この世に存在しないから。
 本書で説かれる「基礎教養」というのは、義務教育で習うような基礎学力ではない。むしろ人生を豊かにし、また時に生きるために必要となる知識のことだ。そうしてそれが一過性のものでなく、自分のなかへ残って「いざ」というとき活用できる知識のことだ。自分を守り高め、人間関係を円滑にするためのツール、というてもよいか(そういえば佐藤優は「教養は武器になる」てふ主旨の発言をしていたように記憶する)。
 「自分がきちんとできていないのに述べるのも何なのですが、あなたも、仕事を通して勉強すればするほど、やっぱり基礎が必要だと痛感するはずです。ちょっとした夏休みや冬休み、少しでも時間があるときに関連の専門書や古典的な基本書をきちんと読んでみると、自分がなにがわからないのかがわかるはずです。「わからない」とわかったことを勉強するということです。/これは、誰にでもできることです」(P36)
 これには同感しかない。望んで就いた仕事であっても基礎に不安があると、たちまち仕事は立ち行かなくなる。昔取った杵柄であっても風化した知識、偏った知識、誤った知識で事に当たるとたちまち醜態を曝してしまいかねない。
 が、「自分はなにがわからなかったのか」謙虚に認めて、正しい知識、新たな知識を身に付ける勉強を始められる人であれば、基礎教養は身に付けられるのだ。そうやって自分の弱かったところを補強し、欠落を埋めたあとに見えてきた世界の、なんと眩しく、なんと豊饒で、なんと広大に映ることか!
 大事なのは、「わからない」とわかったことを学ぶ姿勢である。池上さんは番組でいろいろな芸能人と共演してきた。本書でも何人かの名前が出る。そのなかでひときわ印象に残っていると思しいのが、当時まだSMAPだった中居正広だ。ファンゆえ、わたくしも池上さん同様、「中居くん」と呼ばせていただく。
 「中居くんはふだんから、非常に勉強家です。けれども、「自分は途中から勉強するようになったので、基礎があるわけじゃない、どこか自分には足りないところがあるんじゃないか。どこか間違っているかもしれない」という恐れのようなものを持っているように感じられます」(P117)
 この池上さんの驚きは本物だ。夙に知られるように中居くんは相当な勉強家、読書家である。
 勉強家としての中居くんの出発点はおそらく、コンサートのMCがふるわなかった経験であろう。それ以来MCで使えるネタをノートに書き留めるようになり、ノートのページは真っ黒に埋められていたという。ノートはそこから発展を遂げて、読んだ本・聴いた歌の印象的なフレーズを抜き書きしたり感想を書いたり、日々考えたこと思うことを書き留め、コンサートの演出や進行についても書かれるようになった。野村克也の著書に学んでSMAPのあるべき姿を模索し、形にしていった(プロデュースしていった)。
 また、『ザ・大年表』第1回では政治について事前に徹底的に学び、放送では努力を感じさせない堂々たる司会ぶりを発揮した。池上さんを驚嘆させたのは、この番組での共演がきっかけだったのではないか。最近も『中居正広のニュースな会』で勉強家の片鱗を示している。
 自分に欠けたところがあることを理解し、それについて学ぶ力があるからこそ、中居正広は唯一無二の司会者として活躍を続けているのだ。
 終わる前に、なんだか救われた気分の一節を引用する。曰く、──
 「別に研究の道に進まなくても、自分から学ぶ力をつけることができれば、社会に出てからも、ずっと勉強を続けることができます」(P85)
 研究者になることは諦めてもそのまま自分の好きなことを、知りたいことを勉強し続けてきた。時々、こんなことやるよりももっと楽しいことがあるだろう、と嗟嘆したこともある。好きな女の子に猛アタックしてふられてもふられてもデートに誘う、っていうのもその一つ。
 でも、それらに憧れめいた気持ちは抱いても、実践することは躊躇われた。そういうことに向いた性格ではない。勉強は淋しさや苦しさを紛らわせるためもあったけれど、わたくしは根本的に<学ぶ>ことが好きだ。日本の古典文学や書誌学についての本を読み、それについて考え、聖書を読破して本ブログの核とさせたことも、結局は勉強することが楽しかったからだ。
 わたくしは女の子や家庭の幸福ってものとは無縁に出来ているのだから、せめてこれぐらいの愉しみはあって良いと思っている。
 さて、本書は基礎教養の大切さを説いた本である、と冒頭に述べた。残念ながら本稿はその魅力の一端をも伝えることはできなかったが(基礎教養から遠く離れた所に着地してしまった時点でそれは明らかだね)、最後にこの一節を引いて面目を果たすことにしたい。
 「(いまの教養とはどんなものか?)私は、教養を持つということは、「よりよく生きる」ということではないか、と思うのです。/社会で力を発揮することができ、よく生きること。それに資するものは、現代的な教養と言ってよいのではないでしょうか」(P172)◆

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