第2924日目 〈ドストエフスキー「ネートチカ・ネズワーノワ」は読めませんでした。〉 [日々の思い・独り言]

 今日立ち読みした本のなかに(※)、ぐさり、と来るフレーズがあった。そうして、それに深く首肯した。曰く、1冊の本を読むのに10日以上要するのはよろしくない、と。むろん、どんな本を読んでいるかで変わってくる話ではあるが、これが海外の小説である限り概ね正解と思う。
 殊、小説に関して「10日」というのは、一つの目安とするには打ってつけの期間ではあるまいか。この場合、「1冊」を「1個の作品」「1編の作品」と受け止めるか、分冊ならばそのうちの「1冊」と捉えるか、ケース・バイ・ケースになる。本稿では「1編の作品」と捉えて話を進める。
 前置きがダラダラしたが、要するにわたくしはいま読んでいるドストエフスキー「ネートチカ・ネズワーノワ」を放り出すことに決めたのである。
 聞き慣れないタイトルだな。そう思われるのはもっともだ。全集でしか読むことができない小説なのだから。
 作者には珍しく女性の一人称を採用した本作は、シベリア流刑の前から<大>長編を企図して執筆されていたが、流刑が終わってペテルブルグに戻った後、短くまとめられて(長編の構想は破棄されて)新たに中編小説として発表荒れた。
 新潮社版全集第2巻の1/3強を占める「ネートチカ・ネズワーノワ」を読み始めたのは、確か10月の下旬からだ。思えば予兆はあったのだ。そもそものはじめからページを繰るのが遅い読書だった。なかば義務から来る読書であったからでもあろう。四六判であったから、とか、活字が小さくて、なんていうのはあとから取って付けた言い訳でしかない。忌憚なく、偽りなくいえば、面白くなかったのだ。面白くないというよりも、つまらなかったのだ。つまらなかったというよりも、まるでのめりこむ要素を欠いていたのだ。
 自分に合う、合わない、は別として、小説とは面白いもの、ページを繰る手が止まらないもの、たとい短時間であっても没入できるものであるはず。そこにはかならず、<愉悦>と<法悦>がなくてはならない。にもかかわらず、──
 「ネートチカ・ネズワーノワ」にはそれがなかった。いっさいなかった。もう呆れてしまうぐらいに、なんにもなかった。
 結局カバンのなかに潜ませて1ヶ月強、次第次第に本を手にすることが間遠になっていった。久しぶりにページを開いても、読書はもはや苦行でしかなかった。『二重人格』がそうだったように、そのうち「これは!?」とスイッチが入って面白く読めるようになる瞬間が訪れるだろう、と期待した──が、それは抱くだけ無駄な期待であった。「ネートチカ・ネズワーノワ」を読むイコール苦行ニアイコール退屈、てふ公式が自分のなかにできあがると、もうこれ以上読むのは耐えられなくなり、同時に、パタン!、と本を閉じて本棚に戻した。
 切り棄てて、次へ向かおう。恋はそのように行かないが、本ならそれが可能だ。
 読書、殊小説は短期集中を旨とすべし。◆

※立ち読みして棚に戻したと思っていたが、実はそのとき購入していたことが判明。どうした、わたくしの記憶力? その本は、印南敦史『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社 2016/02)である。□

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