第2940日目 〈池上彰+佐藤優『知的再武装 60のヒント』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 10年近く前になると思うけれど、フェイク映像を製作してSNSやLINEに投稿したことがある。真夜中の井の頭恩賜公園、玉川上水脇を通る電灯もなく舗装もされていない一本道を歩いたときの映像だ。足許が泥濘んでいた記憶があるから、前日か前々日に雨でも降ったのだろう。
 東京にも漆黒の闇がある。ほんの数10センチ先に差し出した手が見えないのだ。一本道を撮影しながら歩いていると、不安な気持ちに駆られた。あとでこれを観直したとき、この世ならざる存在が映りこんでいたり、そうでなくとも所謂怪奇現象とされるものが記録されているのではないか、と柄にもなく怯えながら。
 勿論、こちらが怖がりつつも期待していたものは、記録されていなかった。が、途中スマホを持ち直したことで画像がぶれた瞬間がある。心霊動画の文法の1つである「横パン」「縦パン」だ。見ようによっては、或いは観る人の思いこみ乃至はこちらの誘導次第で、ここに霊が映っている、怪奇現象が記録されている、と信じこませるのは容易だ。もしくは、斯様な誘導なくとも殺家場所と時間帯だけ提供すれば、あとは観る人が勝手に<記録されていないものを(思いこみゆえに)見出す>だろう。
 そうして結果は、こちらの思う壺であった。何分何秒の場面になにか映っている、ラップ音のようなものが聞こえる、等々。それに気を良くして某心霊動画の編集部に投稿したら、フェイクと承知されつつ採用された。わたくしはその回をいまも観ていない。
 こんなお話しを長々とさせていただいたのは、本書『知的再武装 60のヒント』でフェイクニュースに踊らされない為の心構えのようなものが、池上彰と佐藤優によって開陳されていたからだ。引用するのは池上さんの発言だが、曰く、──
 「フェイクは見極めが非常に難しいものになってきていますが、読む者の教養や一般常識が問われているのだと思います。(中略)(フェイクを疑えるだけの)ちゃんとした常識を持っているかどうかが日々試されている」(P192)と。
 Facebookのアカウントは疾うに廃したから、どのようなフェイクが出回っているか知らないが、Twitterを見よ。タイムラインへ流れてくるツイートを注意して見ていると、あきらかにフェイクニュース、デマ情報と思しきものが日常的に存在している。これに如何に踊らされないようにするか。
 それを池上さんは「一般的な常識」を持つことだ、という。更に補強すれば、「常識を常識たらしめるための教養を持て」と説く。もっと違う言い方をすれば、地に足着けてまわりの世界を見なさい、疑問が生じたら自分で調べなさい、本を読みなさい、歴史と道徳と倫理と論理を学びなさい、ということだ。そうすることで己のなかにフェイクをフェイクと見破るだけの目が養われ、容易に踊らされない術が身に付けられる。
 別の箇所で佐藤優はこの見極めに関して、「立ち止まることが必要だ」という趣旨の発言をしている(P111)。直前の「教養とは何かと言えば、適切な場面で立ち止まれることです」を踏まえての言である。短い(断片的な)ネットニュース、○分で分かるニュース解説といった類の危険性を見極めるためには教養が必要であり、そのためには一旦立ち止まって「この情報は本当なのだろうか」「出典はどこか、信頼出来るソースからなのか」と考える作業が必要となるのだ。
 むかし、当時2チャンネルの管理人であったひろゆきの言葉は、SNSユーザーばかりでなくネット利用者のすべてが虚心坦懐に耳を傾け、自戒とすべきと思う。ひろゆき曰く、「2ちゃんは嘘を嘘と見破れる人でないと扱えない」と。SNSを中心にして形成された世論によって、全世界がネガティヴな方向へ舵を切ることだってあり得る。それを阻止するためにも、フェイクをフェイクと見破る教養や常識が求められている時代は、現代を措いて他にあるまい。
 誰もがフェイクニュースを作ったり、疑うことなく脊髄反射的にリツイートして拡散できるお手軽かつ厄介な時代に生きていることを、われらは自覚すべきであろう。教養や常識は自分を守るための武器であり、他人を傷附けないための<立ち止まり>の方法なのだ。
 本書は他にも「4つの対話の術(型)」や『KGBスパイ式記憶術』(カミール・グーリーイェヴ/デニス・ブーキン:著 岡本麻左子:訳 水王舎 2019/2)を基にしての記憶術とその定着のさせ方などあるが、正直なところこれらの点については目新しく感じるところは殆どなかった。というのもこの程度のこと、コールセンターでは研修とOJTの段階で叩きこむからだ(むろん、筆者の会社、筆者の部署では、という限定条件下の話だが、コールセンターを運営する会社がこの程度のメソッドを就業者に行っていないのは、極めて問題視すべき事柄であると断言する)。
 一方で、死を想定した知的再武装の話(P166)、組織に於ける老廃物の話(P235)、敵あらばかれより長生きして歴史を上書きせよという佐藤優の力説(P168-171)には、思わず膝を叩いたことを報告しておく。
 これらについてはまた別途、機会あるときに紹介させていただくとして、知的再武装の根幹を成す印象的な会話が本書のお終い近くで交わされているので、最後に少々長くなるがそこを紹介して筆を擱きたい(引用部分に著作権的なものが引っ掛かってくるかもしれないが、なにか言われたら削除して圧縮する予定)。池上さんの「本当に怖いのは記憶力の衰えではなくて、好奇心の衰えですよ」(P245)という発言から発展して、──
 「池上:朝きちんと着換えて、面倒くさくてもちゃんとヒゲを剃る。これはすごく大事。それから一日に一度は必ず外へ出る。あるいは居場所を作るなり、行く場所を作る。
 佐藤:そう。喫茶店代とかドトール代とか、それをケチらないで、外で一杯ぐらいはコーヒーを飲む。
 池上:だから、私、行きつけの本屋があるから、そこで本を買って、すぐ横のタリーズでコーヒーを飲んで、ちょっと本を読んで帰る。タリーズはちょっと高いから、ドトールなら安くていいですよ(笑)。
 池上:こういうのは本当に重要です。そうじゃないと、ほんとに一週間、十日、外に出なくなるでしょ。そしたら、そのうち一ヵ月外に出なくなります。
 池上:足腰はどんどん弱くなるしね。だから、着替える、ヒゲを剃る、外に出かける。これが「知的再武装」だっていうことなんです(笑)。
 佐藤:形から入ることは大事です。いろんな知的なことへの関心が薄れていって、好奇心も薄れてゆく。生きることがマニュアル処理になってしまって。流れ作業で物事を処理することになってくる。まずは、流れ作業を崩すことです。ルーティンになっちゃうと考えなくなるから、ルーティンが崩れるような事態が起きたら対応できなくなってしまいます。
 池上:外に出ないと足腰が弱まるでしょ。足腰が弱まると、知的意欲や好奇心が薄れてきますから。足腰をあえて鍛えなくてもいいけど、弱くならないようにするってことも大事です。
 佐藤:私は五百十二日間、獄中にいたでしょ。足腰が弱まるということを実体験したんですが、出てきてから、駅の階段が上がれないんですよね。筋力が完全に落ちてしまって、だから、もう必死にリハビリと一緒のことをしました。」(P247-249)
 この箇所を読んでいて、いろいろ思い出したことがある。本を読むためであり明確に体力維持や居場所作りとは断っていないけれど、渡部昇一が毎日必ず散歩に出て喫茶店で海外の雑誌や本を読む習慣を作っていたこと。三浦しをんが、確か直木賞を取る前に発表したエッセイだと記憶するが、自宅ではジャージで過ごしているがそのうち近所に出掛ける程度なら着替えることせずジャージで平気になり、やがてその格好で新宿まで出ることにも抵抗がなくなってしまった旨読んで、脳ミソと思考と常識を疑ってしまったこと(フィクションだとしてもよくこんな恥ずかしくて人格疑うことが書けるな、という蔑み)。或いは最近読んだ久世芽亜里『コンビニは通える引きこもりたち』(新潮新書 2020/9)の内容を思いだし、現場を肌で知る人の考えとの相違に考えこんでしまったり。
 ここでの池上さんと佐藤優の対話から導き出されることは、なにか?
 「知的再武装とはなにか」を問うとき、勉強法や勉強へのスタンス、教養と常識を身に付けることも大事である。が、その根幹を成すのは生活習慣、生活スタイルであり、健康と体力(筋力)なのだ。だらしなく過ごすのではなく、毎日をこれまでと同じように律して着る服もきちんと選び、地に足着けて正しく生きてこそ、「知的再武装」の意味がある。
 本書の〆括りが教養ではなく体が資本/生活習慣の重要性という当然かつ必然の結論に落ち着いた点に、新鮮さと魅力を感じ、同時にこの本は信用できる、と強く感じた。ここは本書の最重要部分というて良いだろう。◆

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