第2997日目 〈1980年代、テレヴィはドラマとアニメで花盛り。〉2/2 [日々の思い・独り言]

 1980年代はドラマだけでなく、アニメも毎日放送されていました、と言ったところで前回は終わりました。今日はその続きから。
 あの時代、いったい何百本のアニメが作られたのか、まるで見当が付きません。OVAが本格的に市場へ参入してきたことも併せるとその数、有象無象、星の数程もある、としか言い様がない。1980年代のOVAで後世に爪痕を残した作品といえば、『メガゾーン23』と『幻夢戦記レダ』、そうして『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を挙げる。
 『メガゾーン23』と『幻夢戦記レダ』は時期を接してVHSソフトで、1984年か翌年頃に発売されたように記憶する。当時のクラスメイトでかなりのアニメ好きが『メガゾーン23』を、そうしてわたくしが『幻夢戦記レダ』を購入したからだ。このあたりでお互いの嗜好がはっきりと見て取れます、即ちクラスメイトがSFを好み、わたくしがファンタジーを好んだ──もしかするとこのあたりが萌芽となって、後のトールキンやRローリング他の名作群に触れていったのかもしれませんね。
 『メガゾーン23』はその後、監督を代えて都合3作目まで作られた。1作目の設定は今日ならば陳腐の一言で片附けられるだろうが、当時としてはじゅうぶんに衝撃的だったね。自分が信じていた世界が実は、コンピュータに支配された巨大な宇宙船のなかに作られた半径数キロが精々の街でしかなく、海外はおろか国内の旅行体験もすべて情報管制された世界のなかで作り出された仮想現実でしかなかったのだから。はじめて件の知人の家で観させてもらったときは開いた口が塞がらなかったなぁ。その3年後ぐらいにフィル・ディックの小説に遭遇したときの奇妙な既視感の源はおそらく、『メガゾーン23』だったのだろうね。
 一方で『幻夢戦記レダ』であるが、これは『聖戦士ダンバイン』と並んでいまでいう<異世界転生もの>の走りというてよかろう。片想いの少年とすれ違ったときに異世界に入りこんだ少女が伝説の戦士となって世界を救う、という、冷静に考えたら「なんだかなぁ」と言いたくなる定番ストーリーなのだが、これを観てなんとなくではありますが自分のなかで創作に於ける趣味嗜好が、その方向性が固まったように思う、という意味でわたくしにはこの作品、或る意味で生涯を決めた映像作品の1つとなります。
 OVAが市場に参入してタイトルが徐々に増えてきたとはいえやはり、まだまだそれは1タイトル1万円以上の高嶺の花的存在。10代の子供に買えるはずがありません。従ってこの時代はやはりドラマ同様、テレヴィ放送される作品に関心が集中し、記憶に焼きつく作品と出会う機会多くなるのは致し方ないこと。というよりもアニメの主戦場はまだまだテレヴィだったんですよ。
 21世紀というか令和の時代になっても放送されているアニメについてお話する必要が、果たしてあるだろうか? 『サザエさん』『ドラえもん』『アンパンマン』『クレヨンしんちゃん』あたりを思い浮かべてもらえれば宜しい。わざわざわたくしが話す必要、ないよね?
 では、ここで語るべきトピックはなにか。このブログ原稿書くよ、というたときに、私『ミンキーモモ』とか『クリーミーマミ』とか観てたぁ、と返事してきた女性がおった。そういえば1980年代の女の子向けアニメって、スタジオ・ピエロ制作の魔法少女シリーズが定番で、1年単位で新しい作品が放送されていたね。ごめん、わたくしは男だからハマらなかったけれど、幼馴染みの女の子はめちゃくちゃハマってたっけ、<沼ハマ>という程では勿論なかったけれど。でもこの系譜の先に『カードキャプターさくら』があるのは良しとしても、まさか『まどか・マギカ』のような作品が登場してくるとは、流石に当時は考えられなかったなぁ……。
 今一度、問う。ここでみくらさんさんかが語るべきトピックはなにか。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ? うん、それは『光子帆船オーディーン』含めて別の機会にたっぷり語りたいね。『マクロス』に始まる<超時空>シリーズ? これもまとめて別の機会に語ろう。え、じゃあ『ガンダム』シリーズ? すまん、『ガンダム』は『Zガンダム』までで良い。『ZZガンダム』は最後までついてゆくことができなかった。『ウラシマン』とか『ムテキング』のような未来警察もの? いや、そのあたりは守備範囲じゃなかったんだ(ってかあんた、相当マニアックだな!?)。『とんでモンペ』や『さすがの猿飛』『うる星やつら』、そのあたりは本当に好きな人が書くべきことだ。じゃぁ、いったいなんなんだよ!? おお、どうか君よ、キレることなかれ、──
 とはいえ、話を引っ張るのもそろそろ限界だ。お話しよう、それは『重戦機エルガイム』という1984年に放送されたロボットアニメである。いや、ロボットアニメ、とは乱暴な括りだな。富野由悠季が新人育成に作品を私物化した、なんて陰口も一時期出た作品だが、逆にそうした作品がなくてどうやって次代のクリエイターが生まれるというのか。そんなことを許容できるぐらいにはまだ、テレヴィが元気な時代だったのだ。
 まぁそんなわけで、『エルガイム』からは多くのクリエイターが羽ばたいたわけだが。その最右翼というべきは永野護を措いて他にない。この人は作品の世界観の構築からキャラクター・デザイン/メカニカル・デザインの両方を担当した人。アニメに目の肥えた人にもそうでない人にも、永野護の手から生み出される登場人物が纏う服やかれらの駆る兵器のデザインは圧倒的な新鮮さを以て迎えられた。言い換えれば賛否両論あった、ということにもなる。
 元々この作品、メイン・シナリオライターの渡邉由自に拠れば、単純明快な青春ドラマになるはずだったのが途中で路線転換、貴種流離譚に化けて主人公が滅亡した王朝の忘れ形見で、両親と国を滅ぼした敵のボスに対抗して反乱軍を組織化、その先鋒に立って戦う、という図式のそれに変更された。
 これで良かったと思います。当初のストーリーにこだわっていたらきっとツマラナイ作品になっていたと思う。すくなくとも自分のなかで何10年もフェイヴァリット・アニメとして残ることも、永野護のその後の作品をコミックといわずイラストといわず設定資料集といわず追いかけることはなかったはずだから。
 幸いと昨年から今年にかけて『重戦機エルガイム』はCSにて全話放送された。勿論、バッチリ録画した。が、観返しても当時の熱は戻ってこなかった。作品の内容が風化したわけではない。こちらの身長が伸びたからだ、と言い訳する気はない。でもなんだか、むかしはあれほど熱中したのに今度はまるでのめり込むことができなかったのだ。結構客観的にストーリーを眺めていたような気がする。
 最終回、主人公が義妹を連れて故郷へ帰還する場面を見届けたとき、やっとその理由に思いあたった──たとい路線転換してもやはり『エルガイム』は青春ドラマであった。登場人物たちが織り成す向こう見ずな情熱と押しとどめようのない感情がぶつかり合う様に、わたくしはきっと疲れてしまったのだ。もはや自分にはゆめ戻ることなき青春の残滓。それが『エルガイム』には詰まっている。加えて、いちばん武勲あって新しい世界の構築の先頭に立つべき者が自らその座から退き、たった1人の女性の面倒を見るために若くして隠遁生活を送ることを選択したその姿勢に、わたくしは言い知れぬ同類意識を抱いたのだ。かれの未来がそのまま自分自身の未来に重なるような思いで、それを見たのだ。斯くて円環は開き、斯くて円環は閉じる。
 わたくしが1980年代最高のアニメを『重戦機エルガイム』と断ずる根拠は、案外とそこにあるのかもしれない。◆

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