第3021日目 〈小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」 〉2/9 [小説 人生は斯くの如し]

 「あれ、ウッド氏だ」
 いつもの衣装を纏ったメイドがカウンター席から顔をあげて、こちらへ視線を向けました。意外なものを見たという風な言い方です。よっ、と席から立つと、ぶふふ、といまにも笑い出したいのをこらえられない様子で近づいてきました。ご丁寧に目尻まで下げています。「なに、サボリ?」
 サボリじゃないってば。そういって、いつものテーブルに座を占めました。「商談が終わってね、会社へ戻る途中の息抜きですよ。──コーヒーをくださいな」
 「<晴れの日ブレンド>でいいよね? ちょっと待っててね。……あ、水、自分でお願い」
 うん、と返事して腰をあげると、さっきまで彼女が坐っていたカウンター席に広げられたハードカヴァーの洋書と辞書、レポート用紙とシャープペンがあるのに気が付きました。「邪魔したかな?」
 気にしないで、と彼女。「ちょっと急ぎでレジュメの依頼を受けたからさ。喫茶店の仕事の合間にやってるの」
 本業はどっち? といまさら訊くまでもない質問を投げると、「翻訳に決まってるじゃん」と予想通りの答えが、ほんわかした口調とふにゃりとした笑顔で返ってきました。
 ああ、やっぱりこれなんだな、と思いました。このやわらかい雰囲気と春の陽光を感じさせるあたたかさに惹かれて、わたくしはここに通い詰めること多々なのであろう、と改めて実感したのです。商店街の店主たちがランチ時でもないのに、そうしてけっして暇なわけでもないのに集まってきて数十分を過ごしてゆくのも、同じような理由からなのだと思います。
 一部に熱狂的なファンを持つ音楽評論家の故能生芳巧がこの町を偶さか訪れた際、この店に寄って彼女の煎れたブレンド・コーヒーとダブルレッグカレーを絶讃し、帰京して後はレコード雑誌のエッセイで彼女に触れて「店主(兼メイド?)のやわらかな口調と心蕩けさせられる笑顔が、この喫茶店が今日まで営業できた秘密といえよう」と曰うた。以来県外からもお客が来るようになったが、もともとそれより前からwebではちょっとした有名店だったようで、喫茶店マニアが作るHPで紹介されている程なのです。でもなぜか雑誌の取材は、彼女、頑として断り続けています。まぁ、わたくし共のような地元の常連にはありがたい限りです。
 「ハイ、お待たせ」
 彼女お気に入りの香蘭社のカップに淹れられたコーヒーが置かれました。湯気が立ちのぼり、鼻腔をかぐわしい香りがくすぐります。「心して、ありがたく飲み給えよ」
 いつものままです、何も彼もが。このままなに一つ変わることなく、永遠にいまと同じ時間が流れ続ければいいのに。そう思いながら、反対側の椅子に坐りこんだ彼女を見て、口許が弛みました。「頂戴いたします」
 「どうぞ。でもさ、見附かっちゃ駄目だよ、ウッド氏。ただでさえあんたの会社、傾いてるんだからね」袖のカフスをいじくりながら上目遣いで、彼女はそういいました。「クビになっちゃうぞ?」
 彼女がうちの会社の内情に通じているのはなぜなのか、という点は不問に処すとして(リーク先は誰か?)、まったくこの子は……どうしてこうまでわたくしの進退を気に掛けてくれるのか。前にも何度か同じようなことがありました。いつであったか、どうしてそんなに気に掛けてくれるの? あなたの心の真ん中に僕がいるのかい? と冗談で訊いたら、途轍もなくこちらを蔑むような眼差しを投げながら、ウッド氏がいなくなったらその分うちの売り上げが減るんだよね、と言われました(確かそのときは同僚も一緒で、ビールを数杯呷ったあとであった、と記憶します)。
 でも、うれしいのです。ありがたくて、涙が出そうなのです。笑われてもいい、敢えて言いますが、<純真>とか<天真爛漫>という言葉は、いま目の前にいるメイド服姿の喫茶店の若きオーナーのためにあるに違いありません。
 しばらく無言の時間が続きました。こんな無言の時間さえなんだか当たり前の風景に思えてきて、とても心地よいものです。彼女も、わたくし以外に客はいないのだから翻訳の仕事に戻ってもいいのに、そうしようとしないのは、彼女なりの気遣いであったのかもしれません。
 やがて、彼女が、チラッ、とこちらを見ました。刹那の後、あ、という小さな声がしたかと思うと、口がOの字の形になり、こちらを見据えるのです。
 「ウッド氏、ちょっとそのままでいてね……」
 彼女はテーブルの上に乗り出して、両の眼を細めてこちらへ顔を近づけてきます。唇に塗られたラメ入りの口紅が妖しく艶を放ち、色素の薄い肌が薄桃色に染まっていました。そうなると気のせいか、眼も潤んでいるように映ります。一瞬、亡き婚約者の顔が浮かびましたが、形のない圧倒的な衝動の前に雲散霧消してしまいした……む、むろん、想いが消えたわけではありません、が……なのですが……。
 彼女の両手が、すっ、とこちらへ、頸元へ伸ばされました。しゅるしゅる、なにやら覚えのある感触が喉元でします。やがて、溜め息混じりに彼女がいいました。
 「相変わらずネクタイの結び方が雑ですなぁ。これでよく営業部長が務まってるね」
 「寛大なのさ」と短く答えたのは、彼女の行動からやましいことを脳裏に思い浮かべたからです。ごめんなさい。
 「早いとこ、ネクタイ結んでくれる女性を探しなさいよ?」
 そんな人、いません。わたくしは頭を振るだけで返事としました。
 お礼をいって、あとはしばらくテーブルの木目から目を上げられませんでした。おわかりいただけるでしょうか、この居たたまれなさを? 
 どれぐらいの時間が経ったのか、好い加減会社に戻らないとな、と思い至ってカップをソーサーの上に戻したときです。彼女が、そうだ、と、左掌を拳にした右手で打ちました。
 「ねえ、ウッド氏。ウッド氏の会社ってさ、半導体メーカーのSDFって会社と取引、あるよね?」
 わたくしは頷きました。もちろん、知っています。知っていますが、同時にどうしてうちの会社の取引先を知っているんだ……と、疑問が湧きましたが、それはすぐに解決しました。『会社四季報』を見れば一目瞭然です。
 それはともかく、SDF社はいちばん大切な取引先です。もっとはっきりいえば、SDF社空取引が中止されたら本当の意味で、うちの会社は経営不振に陥るに相違ありません。それに、今日ここへ寄る前に商談で赴いていた会社というのが、まさしくこのSDF社だったのです。
 でも、なぜ彼女がSDF社のことを訊くのでしょう? 
 問い質すと、うんうんもっともな質問だねぇワトスンくん、とパイプをくゆらす仕種をして、しばしホームズを気取ってから彼女はぐっと、わたくしへ顔を近づけました。不覚にも、またドキリ、としました。
 「あの会社ね、裏でとんでもなく物騒なことやっているらしいよ」□

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